空はどこまでも高く、青い海との境界線を遥かに、永遠と思える水平線を引いている。
太陽は高く、広い渚は、白い波と青い海のコントラストをつくり出し、まるで常夏の楽園を思い浮かばせる。
僕は砂に埋もれたまま、この夢のようなうたかたを、黒いレイバンのサンガラスから、ぼーっと眺めて物思いにふけっていた。
あの日からそう時間が経っているわけでもなく、僕はこの現実が、まるで仕組まれた罠なのか、幸運の女神が、たまたま微笑む相手を間違えたのか、そんな偶然性を考えていた。
渚では、今日の主役たちに混じって、紺色のビキニに白のTシャツを着た絵莉子が、無邪気に水しぶきを上げてはしゃぐ姿がまぶしい。
さっきヨーコがつぶやいた言葉が、僕の意識の隅に、暗い斜を掛けるのは何故なんだろう。

「日差しは強いけど、もう秋空だね」 
秋という季節が何を意味するのか、僕は、自分の気持ちの所在を詮索していた。

今年の三月、あのなごり雪の中で別れた真由美の事が、今でも僕の心を、やっぱり引きずっているのだろうか。
絵莉子を見ながら、僕は少しの空虚感と、僕自身の煮え切らない気持ちに罪悪感を抱いて、こうしてぐずぐずと砂の中に埋もれてしまっていることに気が付いた。
なんてぐずぐずした気持ちの悪い男なんだろうと、僕は初めて僕自身に対し、その優柔不断な性格を憎んだ。






八月も半ばに差し掛かる頃、タツヤから
「おい、今度の日曜みんなで海に行こうぜ」
との誘いに
「いいよ」
と、返答はしたものの
「誰と行くのよ。女の子は?」
という僕の問いに対し、タツヤは
「ヨーコと、あと、アキオとその彼女」
という言葉に
「わかった。俺も何とかするよ」
と軽口をたたいてしまい、瞬時に絵莉子の顔が脳裏をよぎってしまったことは、僕にとっては不幸な事だった。
絵莉子という娘と偶然にバスで出会い、約3年ぶりに会話を交わしてからまだ、三週間も経ってはいなかった。
その間、一度だけ話をしたことを除けば。








夏の暑い盛り、無事、運転免許証も、自動二輪に普通免をつけ加えた僕は、久しぶりに喫茶店「ドルチェ」に来ていた。
あの日、恵莉子との偶然の再会の中で、今年の夏休みも、「ドルチェ」でアルバイトをしている。という事を、会話の端に聞いていたからだ。
3年前と何にも変わっていない店内に、再びあの笑顔が戻ってきていた。
いや、厳密に言えば、僕が大学2年と3年生の時には、勝手に「失恋」したと思い込んでしまって、足が遠のいていただけであった。
昨年の夏、和光ショッピングセンターのバス停で、恵莉子の姿を見かけたときも、実はバイト帰りだったわけだ。
ママが従妹にあたる絵莉子は、あの夏の日から毎年夏休みには、アルバイトで、ここ「ドルチェ」に来ていたという事を、その時初めて知った。
僕は、あの頃と同じ時間帯に来ることはやめた。他のお客さんがいない時に、絵莉子に逢いたかったからだ。
夏の太陽が気温を最高に上げるころ、喫茶店「ドルチェ」に来店した。
そして冷房の効いた店内の、3年前と同じ窓側のテーブルについた。
この時間帯は、平日ともあり、他のお客さんは誰もいなかった。

「カラン、カラン」
「ドルチェ」のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
懐かしい声とともに、あの頃と変わらない出で立ちで、絵莉子がいた。

3年前と違う事があるとしたら、僕たちは、友達という関係にその関係性をランクアップさせたという事だろう。
3年前と変わらず、小さなお盆で、水とおしぼりを運んでくる絵莉子を、今日は遠目に見る必要はない。
テーブルに運んできてくれた絵莉子に声をかける

「来たよ。元気?」
恵莉子は
「久しぶりです」
微笑んだ顔が愛らしい。
僕は、アイスコーヒーを注文する。
再びアイスコーヒーを絵莉子が運んで来た。
「少し時間、いい?」
僕は、無事、普通免許を取ったこと、東京に帰る日時のこと、なんかを話した。絵莉子も、他のお客さんがいないこともあり、バイトの事、夏休みの事、大学の事、なんかを話してくれた。
約束なんかはせず
「また来るね」
と店を後にした。
今の僕にとっては、この気軽な友達関係でよかった。







その夜、公衆電話の前に立ち、絵莉子の家のダイヤルをまわした。
まだ電話機はプシュホンの時代ではない。
いちいちダイヤルを回しながら、絵莉子の反応を想像していた。
何故か気が重い。

「ルルルルル」

受話器の向こうに響く、呼び出し音が僕の動悸を早くする。
「ガチャ!ハイ○○です。」
夏夜の闇の向こうから、女性の声が飛び込んできて、すんでのところで受話器を落とそうとし、かろうじて握り返した。
気付けば手に汗をかいている。
夏の暑さだけのせいではないだろう。

「あっもしもし、絵莉子さんですか。プリンですけど、急なんですが、今度の日曜日空いてますか?」
キャッチセールスみたいな一方的な会話に、絵莉子の声は明るかった。
「バイトも、日曜日はママが入るからいいよ」
という返事に、ほっとするも、内心、大きなお荷物を自ら背負ってしまったかのような心境になるなんて、思いもよらぬことだった。
今から始まろうとしている出来事に対し、僕は何か言いようのない罪悪感と失望感を覚えるとともに、恐怖心を抱いた。







あの日から数日後の今日、待ち合わせ場所になっている、早朝のパチンコドラゴンの駐車場に、絵莉子は現れた。
白地のデニムのショートパンツに、ライムグリーンのショルダーカットのサマーセーター、黒色のブラが見え隠れする。白のサマーサンダルに、つばの広い帽子。白縁の丸いサングラス姿から、やはり初めて会った時と同じように、すらりとした白い足と、その指先にはピンクのマニキュアを施している。
僕はその姿に目のやり場を失ってしまった。
まるで、週間プレーボーイから飛び出してきたモデルのような出で立ちに、僕は絵莉子をみんなに紹介することさえ、すっかり忘れてしまっていた。






「おはよー。誰が送ってくれたの?」
僕はまるで、グラビアモデルにでも声をかけるような決心をして切り出した。
内心、どんな反応が帰ってくるか不安だった。
「ドルチェのママからね。ちょっといつもより早出だけど、友達と海へ行くからってことで送ってもらったの」
絵莉子の笑顔がまぶしい。
僕は内心「ほっ」としたのもつかの間で、誘った当事者としての「責任」が、「安心」という気持ちにも増して、僕の心に重くのしかかってきて、息苦しさを感じた。

そんな会話をしている間に
「どこの娘だよ」
とタツヤが絡んでくる。
「誰だっていいだろ」
「お前のこれや」
とアキオは、右手の小指を立ててにやにやしている。
「まあ、そんなとこ」
僕は絵莉子の華やかな姿とは対照的な、重い気持ちで答えた。

そんな会話で、男女3ペアがそれぞれの持ち物である、タツヤのカローラFXと、アキオの117クーペ、就職は地元でするという条件で買ってもらった、僕の中古のスカイラインGT-Rに分乗して、目的地は鹿児島の脇本海水浴場までのロングドライブだ。
僕の助手席には、絵莉子がそのすらりとした白い足を伸ばして座っている。
やはり目鼻立ちが通った横顔が美しい。
僕は道々、絵莉子の事をいろいろ考えていた。
ファッションセンスや、物おじしない、はきはきとした垢ぬけた言動に、僕は少々臆病になっていた。
約2時間の二人だけの車中で、なかなか会話も弾まない。
僕らはまだ知り合えてもいなかった。

考えてみたら、女性に対する憧れの感情が先走っていたことは、拭い去れない事実だろう。そんな一方的な「恋心」が、結局、成就することもなく、儚く、夢うつつの物語で終わり去ってしまうことを、僕はすでに真由美とのことで知っていた。
真由美との別れもあり、僕は「恋」に対して臆病になっていた。

途中、休憩したドライブインでタツヤが
「あのきれいな娘、どこで知り合った娘ね」
と問い詰めてくる。
僕は深く説明する気にもなれず、今日、みんなと海へ来たことをすでに後悔していた。
何か、絵莉子を「だし」に使ったような、言いようのない罪悪感と、これから訪れるであろう離別の恐怖におののいていた。







夏の太陽がまだ頭の上で、空気の温度を上げている。
僕の体温も、心もち高く感じるのは気のせいだろうか。
僕はみんなを遠目に、ひとり木陰でコークを喉に流し込みながら、サザンのテープを流している。
昨年の夏発売された、アルバム「鎌倉」だ。

昨年の今頃、RZ350のタンデムシートに真由美を乗せ、鎌倉まで走ったときに聞いた曲も、やはりサザンで、「いとしのエリー」だったことを、今更ながら未練じみて、一人ぐちぐちしている自分に嫌気がさした。
そんな想いをしているさなか、絵莉子が
「この曲いいよね」
と、僕の隣に寄り添って座った。

君が涙を止めない 
Oh my hot strawberry women, Donts you go
別れ話に  Cry On

夢の中まで甘く
You,re my hot blueberry lady, Jast with you
言葉にならない

カセットデッキからは、シングルカットされた、ヒットナンバー「メロディ」が流れている。
僕はまるで、真由美と絵莉子から責められているような錯覚になり、うつむいてしまった。

「今日はごめん」
「どうしたの」
僕は、我慢しようのない心の内を、つい絵莉子に話してしまった。
昨年までの事。
まだ元彼女の事を引きずっている事。
今回のとっさの誘いのこと。
こんな会話は、喫茶店「ドルチェ」では、話題にも上らない事であった。

「気にしなくていいよ。実はね、私も昨年の夏、それまで付き合っていた彼と別れているの」
僕は驚くという心境とは裏腹に
「引きずったりはしてないの?」
僕と同じ境遇を経験している、絵莉子が真由美とだぶってしまい、聞かずにはいられなかった。

「もう忘れたよ」
そんなあっけらかんとした返答をする恵莉子に、僕は、「恋愛」に対して抱く感情や、儚くも「恋」が終結を迎え、そのことに対して、きっぱりと折り合いをつけることができる人間に、初めて逢ったような気持ちになった。いや、もしかして真由美も・・・。
その瞬間、真由美との過去が走馬燈のごとく、サーッと脳裏をかすめたのは何故なんだろう。
お互い、「好き」や「嫌い」を簡単に語り合える程、低いステージにいない、という事を悟った瞬間だ。

僕は少しぬるくなったコークを一気に飲み干し
「天気も最高だし。今日を楽しもうぜ」
と、まるで僕自身に言い聞かせるように、絵莉子の瞳を見つめた。
彼女を傷つけてはならない、といった使命感にも似た純情が、ふうっと頭をもたげた瞬間だった。
絵莉子に対しての感情が、「憧れ」のまんま「愛情」に成就していない事に、僕は気付いてしまっていた。
まるで、姿を変えた真由美が、僕の目の前に突如として現れ、絵莉子の口を借りて、今の自分の心境を語ってくれたかのような錯覚を持ったことは、少なからずも今の僕にとって救いだった。
僕のぐずぐずとした、曇った気持ちは、絵莉子と話すうち、まるで目の前に広がる渚みたいに、すっかり晴れわたっていた。







その後、みんなで1985年の夏を、惜しむかのように楽しんだことはいうまでもない。
みんないい顔をしていた。
夏の太陽は、永遠に続くかのように、僕らの青春を照らし続けてくれた。

「もう、こんな夏は、二度と来ることはないよね」
過ぎ去ろうとしている夏の海を、惜しむかのように、また、ヨーコがぽつりとつぶやいた。
本当だ。
もう、二度と来ないだろうな。
僕が考えた理由には二通りのわけがあった。






その後、タツヤとアキオと僕は、示し合わせて、それぞれ別のルートで帰る段取りを打ったことはいうまでもない。
僕の運連するGT-Rは、わざと海岸道りを南へ下り、阿久根の「人魚岩」と、東シナ海を望む夕焼けを拝んで帰るルートを選んだ。

絵莉子に
「送るから何時までに帰らないといけないの」
昼間のやり取りの際に、そんな流れになっていたこともあって、聞いていた。
「ママに送ってもらうから、遅くなってもいいよ」
喫茶店ドルチェは、夜の11時頃までやっていた。お互い22歳でもある。






夕暮時、西に傾いた太陽が、今日という日を惜しむかのように、東シナ海に沈んでいく様を、僕はGT-Rのボンネットに、絵莉子の肩を抱き寄せながら見ていた。
水平線に太陽が沈む頃、僕と絵莉子は、どちらから求めるわけでもなく、唇を重ねた。

帰り道、薄暗くなった海沿いのホテルで、絵莉子を抱いた。
絵莉子の透き通るような白い身体は、敏感に、そして素直に何度も僕を受け入れてくれた。
肌を重ねるたび、絵莉子の温かさが、「行きずりの恋」じゃなく、本当に絵莉子のことを「愛している」という事実を、僕に気付かせた。
今まで経験したこともない感情が、僕の心を支配している。
「愛している」からこそ、成就しないであろう「愛」の重さに僕は立ち止まってしまっていた。
手のひらに入るほど、少女の様な小さな乳房と肩が、しだいに僕を臆病にさせた。
だから、最初で最後になるであろう絵莉子とのことを、僕は僕の身体に刻み込んでおきたかった。
窓から入る、薄暗い夕焼けの名残りに形どられた、絵莉子のその美しい肢体を目の当たりにしたとき、僕は直感した。
これから続くであろう、お互いの長い人生が、決して交わることのないレールとして、永遠に続く様を予感したとき、これ以上入ってはならない禁断の領域を悟った。







夜のとばりが降りる頃、GT-Rのフロントガラスを、突然の夕立が叩いた。
まるでスコールにも似た大粒の雨に、思わずネオン管の灯る、夜のドライブインに車を止めた。
銀色の雨は、今日という日を洗い流すかのように、降り続いた。
僕は、ポケットからラッキーストライクを1本取り出し、シガーで火をつけ、大きく深呼吸した。
今日という一日が、紫の煙とともに消えていくようだった。
カーステレオからは、サザンオールスターズの、「メロディ」が流れている。

Honey you  いついつまでも  Beby
Woo  yeah  今宵 雨のSeptember
君に 乗る 純情な夜がとぎれてく  oh, oh, oh

いい女には  Forever  夏がまた来る
泣かないで  マリア  いつかまた逢える
誰かれ  恋すりゃ  悲しみに濡れ
And  my  hoart  went  zoom,   with  yow


「今日はありがとう」

絵莉子がぽつりとつぶやいた。
僕は返事をする代わりに、絵莉子のその愛らしい唇を僕の唇でふさいだ。
これ以上、絵莉子の口から、言葉を出させたくなかった。
ぼくは、残された絵莉子との短い時間を、僕の記憶の中に刻み込もうとしていた。
言葉が記憶の中に残らないという事を、真由美とのことで知っていたからだろうか。
僕は唇を離して、まるで僕自身に言い聞かせるように、そしてしっかりとした口調で、絵莉子の澄んだ瞳に向けてつぶやいた。

「今日という日を忘れない。必ず・・・」

何故か涙で、絵莉子の顔がぼやけてよく見えない。

僕は、イグニッションキーをひねり、交わることのない僕自身のレールを走り出した。
GT-Rを、絵莉子のいとこが待つ、喫茶店ドルチェに向けて。





今でも、「メロディ」を聴くと、あの時の海の青さと、絵莉子という、ひと夏をともにした娘のことを思い出す。

永遠に僕の心の中に・・・。
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早いもので、大学四年になっていた。
学生最後の夏休みは、大学の単位の一つである、「教育実習」のため、故郷に帰っていた。
昨年の夏、真由美と別れて以来、もう一年近く、一人の身を持て余していた。
理不尽な別れ方をしたせいか、心の片隅には誰にも打ち明けることのできない、重いしこりを抱え込んだまんまだ。

そんな気持ちを紛らわすかのように、ガキどもとの生活に、日々を追われていた。
もう初夏の入りである。
道端の木々からは、「蝉」の鳴き声が聞こえ始めていた。

汗ばんだ体を、夕暮のパチンコ店の冷房が癒してくれる。
そんな相変わらずの夏を、一人すごしていた。
ごくたまに、古いダチであるタツヤが、夜の街にいつものカローラFXに乗って誘いに来るぐらいだ。





その日もくそ暑い太陽が、じりじりと地表を焦がしていた。
僕は、「車の免許」をとるために、いつもの「和光ショッピングセンター」の停留所でバスを待っていた。
午前中とはいっても、誰もいない。ローカルな町である。
もうずい分遅い時間のバスに、一人乗り込むと、いつものように最後列に腰かけた。バスの乗客は、僕一人だ。
「あーあ、今日もくそ暑いなぁ」
変化のない日常と、自分自身が置かれている状況に嫌気がさしていた。
とその時、予期もしない出来事が起こった。

3年前、一方的に恋心を抱いていた、喫茶店「ドルチェ」の、あの娘が、一人乗り込んできたのはただの偶然だろうか。
予期しない出来事なんて、いつだって突然に起こるもんだ、とは分かってはいても、今、この現実を受け止めるためには、莫大な時間を必要としたことは言うまでもない。
一瞬我を忘れ、パニックになろうとする自分に言い聞かせるように、平素を繕うも、無駄なあがきである。
そんな自分のことでいっぱいいっぱいな僕に、その娘が微笑みかけながら、わざわざバスの最後尾まで歩み寄ってくる。
「おひさしぶりですね」
一言そういうと、その娘は僕の近くの席に座った。

僕は、意識が一瞬とびそうになる寸前で、何とか持ちこたえることができた。
3年もの前の夏に、日々通い詰めた挙句に、何にもアクションを起こさず、僕の「恋」は終結していたはずだ。
あの夏の一瞬一瞬の思い出が、古びたネガを巻き戻すかのように、僕の脳裏を駆け巡った。
あの娘は僕の事を覚えていてくれたんだと。
思うと同時に、何か言わないと・・・焦りが僕の心を支配する。
時間は過ぎ去るばかりである。
「まだあそこに居るんですか」
とだけ、かろうじて返すことができた。
彼女は微笑みを返してくれた。






二人を乗せたバスは、時間の壁を破るかのように、目的地へ向けて進んでいく。
僕は、焦りと羞恥心の塊となっていた。
彼女は、3年前と変わらない出で立ちで、ニットの白のサマーセーターに、やはりスリムのジーンズ。今日はカジュアル系のサマーサンダルである。
3年前のあの淡い気持ちが、湧き水のごとく湧いてくる。
でも、会話が続かない。
「どうしたらいい」
自問自答の時間がバスの進行とともに過ぎ去っていく。

「今日はどちらまで」
何という燻った会話なんだろうと、己を呪いつつも、何とか話せた安堵感が身を包む。
「実は、家に帰るところなの」
そう、彼女は宮原町の住人ではなかったのだ。
僕は思いもよらぬ返事に、少しの期待感を覚えた。
会話の流れで、実は彼女は僕と同じ年で、今年22歳になるという事、そして「喫茶店ドルチェ」は、従妹がオーナーで、3年前にオープンした事、あの夏以来、毎年手伝いでアルバイトに来ているという事、今年の夏休みも。今は地元の大学4年生であるということ、名前は「絵莉子」ということ。
二人しかいないバスは、目的地までの短い時間をかせいでくれた。






事は予期しない展開に発展していった。
そして会話の流れから、お互いの家の電話番号の交換まで発展するとは思いもよらぬことだった。
まだ、携帯電話の存在が夢の時代である。
神様は本当にいるんだと、思ってしまう出来事で、僕の変化のない日常は、急に大きな流れに乗っかってしまった。
お互いの夏休みは、今始まったばかりである。
僕の方が車校のあるバス亭で早く下車した。




今年の早春、なごり雪の中で、真由美を見送った時とは正反対の気候や感情に、僕は包まていた。
僕が持っているトランジスタラジオから、サザンオールスターズの「鎌倉物語」が流れていた。
昭和57年。そろそろ写真もセピア色に彩られるぐらいの昔、僕は故郷の宮原町にはいなかった。
あの頃、親譲りのDNAが、突如として開花したのか・・・あるいはそれまで培ってきた、努力の賜物なのかは分からないが、とにかく僕には大きな夢があった。
それは、今ほどメジャーじゃなかった「箱根駅伝」に出て、その先は「オリンピック」に出る。という、今考えれば本当に夢のような期待を込めて、推薦で名門「日本体育大学」に進学し、故郷を離れていたからである。

しかし、上京して大学生活も半年たたないうちに、現実の厳しさを思い知らされるわけである。
そして故郷に帰りたくてしょうがなかった。
今ではよく言われる、四月病だったのかもしれない。
あの頃の同級生が、みんなそうだったのかは定かではないが、とにかく現実から逃げ出したかった。





七月、大学の夏休みとともに、部の休暇が四年生のマネージャーから告げられると、合宿所の一年生の同級生は、次の日、ほとんどが姿を消していた。
当然その中には僕も入っていたわけだ。

羽田空港から飛行機に乗り込むあの瞬間の、逃避するような、なんとも形容しがたい心境といったら、たぶん経験したことのない者には分からないだろう。
約2時間後、蒸し暑い真夏の熊本の地を踏むと、まるで戦地から無事帰還したような気持になった。
まだ空港から直行便が出ていない時代である。
空港から故郷へ、バスやJRを乗り継ぐ方が、はるかに飛行機に乗っている時間より長かった。
何もかもが懐かしく目に飛び込んでくる。約5時間後、たったの3ケ月だった東京生活だが、数年もいたような疲労感とともに、故郷の宮原町に着いた。

何も変わっていない・・・。
当然だろうけど、全てが懐かしく感じられ、不思議なことに、誰に対しても優しくなれた。
そんな気持ちを温めながら、約2週間の休暇のスタートである。
さっそく次の日は、その頃開店した、「パチンコドラゴン」に涼しさを求めて、時間つぶしで球を弾き、昼時に、それまで気付かなかった、国道3号線沿いにひっそりと佇む、喫茶店ドルチェに入った。






その頃は、喫茶店ブームで、あちらこちらに新しい喫茶店ができた。
たぶん、そんな流れから突如として出現したのかもしれない。
店内は、6坪ぐらいの広さで、カウンターに4席、窓際に2テーブル、奥に1テーブルといった、珍しくもない配置で、古ぼけたジュークボックスが置いてあり、カウンターの隅にはコーヒーミル、窓は外から観られないように、薄い黒色のスモークが貼ってある。
奥のテーブルはその頃流行りのゲームテーブルで、あの頃は当たり前だったのか、コインバックの麻雀ゲームがセットされていた。

今考えると、よく一人で初めての店に入れたよなぁーと感心する。
多分、東京生活で、少々の図々しさと実行力が付いていたのかもしれない。

カウンター内に女性が一人グラスを拭いている。
アルバイトなのか、オーナーなのかは分からない。
歳の頃20歳前後で、その頃は珍しい薄い茶髪の少しカールが掛けられたセミロングに、目鼻立ちがしっかりとした、どこか知性を感じさせる細面の顔だちだ。
薄いグリーンのショルダーカットのサマーセーターに、スリムのジーンズを履いて、白のサマーパンプス姿に僕の目はくぎ付けとなってしまった。
19歳の僕にとっては初恋ではないが、年上だと思う女性に初めて魅かれた瞬間だ。
窓際奥のテーブルに陣取り、遠目に女性の様子を盗み見ていると、おしぼりとウォーターを小さいお盆でテーブルに運んで、僕の目の前に置いてくれた。
白くて細い指を観ないようにして見ていた。ついでに指輪の位置も。
注文を聴かれて、確かスパゲッティナポリタンとアイスコーヒーを頼んだような記憶が、古ぼけたセピア色の写真のように、遥か遠くの記憶に残っている。
バックミュージックは何だったのだろうか。何かしらのメロディが流れていた。
僕は誰もいない彼女との、6坪の空間を大切にしようとしていた。

どの位いたのだろうか、次のお客さんが入ってくるまで居ようと、暗に決めこんでいたと思う。
しかし、昼時である、心に決めた時間とは裏腹に、あっけなく決意は崩れ去り、スパゲッティとアイスコーヒーを味わうでもなく、そそくさと腹にため込み店を後にした。
それからが大変である。
想いはドルチェの彼女の事ばかりである。
目をつぶっても、何をするときでも・・・。






上京するまで、そのほとんどの昼時を、ドルチェに通った。
しかし、彼女とは何一つ会話することなく、話しかけられることなく。
とうとう2週間が経ち、上京する日、何にも告げず、何にもなかったかのように、熊本駅行きの汽車に乗り込んだ。
また次の休暇に、帰省したら行こうと考えていたからだろう。
気持ちの中には、少しの余裕と儚い想いが共存し揺れていた。






そして僕が大学1年生の正月明け、先輩たちの功績で得た、「箱根駅伝」総合優勝を土産話に、今度こそ彼女と話をしようと喫茶店ドルチェに行った。
そこには、夏の頃と全く何にも変わらない椅子、テーブル、ジュークボックス、コーヒーミルがあった。
ただ一つ変わったことがあるとするなら、彼女の代わりに、年が少しだけ上に感じる女性に替わっていたことだけである。

何にも無かったかのように、いつもの窓際奥のテーブルに座り、あの夏、毎日食べていたスパゲッティナポリタンの代わりに、カレーライスとホットコーヒーを頼んだ。
あの夏、ここに居た女性の事を聞けるはずもなく、オーダーを運んできた女性の手に自然と目がいった。
白さは似ていても、あんまり細くはない指が目に入った。
その時、はっきりと「恋の終わり」を悟った。
その日もバックミュージックが流れていたが、どんな曲だったのかは思い出せない。
多分昭和57年当時のヒットナンバーだったことには間違いはないだろう。
スモークの貼ってある窓から、国道3号線の車の往来を眺めながら、彼女の事ばかりを考えていた。
あの頃は僕も「青かった」。
折り合いがつかない気持ちを、カレーとコーヒーで慰め、ぐずぐずと、優勝とは程遠い気持ちを抱えていた。


休暇は未だたくさん残っていたが、次の日、東京へ旅立った。
昭和47年。
僕が小学三年生だった頃、それまでは馬車道であった国道3号線も、アスファルト工事が始まり、大型の重機に、たくさんの労働者たちが右往左往と働く風景が、毎日の登下校時の風景となっていた。
それまで、「五木の子守歌」で有名な、九州山地は、五木へ抜けるルートの、宮原~五木線の分岐点でもあった九州産交バスのターミナル。
とはいっても、砂利が敷かれた広大な広場なんだが、そこに、「和光ショッピングセンター」が建つ。
という計画を、子どもながらに知りえて、突如としてその巨大なコンクリート三階の建物が出現するまで、そう時間はいらなかった。

どんな工事過程で、どんな店舗が入って、どんな形の建物が建つのか、子どもだった僕にはとんと記憶が無い。
そう、時間の狭間を縫って、突如として、何の前触れもないまま、それは出現したのだ。
今思えば、何かの蜃気楼や幻だったんじゃないかとさえ思えてくる。
そして、小学四年生になる頃には、僕らの遊び場として、和光ショッピングセンターは存在していた。
今から約40年もの昔の事だ。

各家庭に車1台がまだ珍しい時代で、日常生活を、不自由なく送るうえで必要な食品や、日用雑貨などの類は、それ専門の店が宮原町の街中には軒を並べていた。祖母や母親達は、夕暮れ時になると、みんな忙しなく買い物籠を下げて街中へ繰り出していった。
そんな生活が、和光ショッピングセンターが建ったことで一変した。
夕暮の決まった時間になれば、すべての人たちがここショッピングセンターに集まるようになった。
「16:00からのババアども」
と、ガキどもは毎日和光ショッピングセンターに集う母親達をいぶかったが、おばさん達にとっては、井戸端会議にはもってこいの場所となり、小学校での自分家のガキや、その友人関係までキャッチしやすくなるという、情報網の拠点と化した和光ショッピングセンターの存在は、時として僕らにとっては不幸をもたらした。

女性ばかりではなく、男や、僕らみたいなガキどもの遊び場としても。
そればかりじゃない。
国道3号線に面した広大なアスファルトスペースは、九州産交バスの「停留所」として、宮原町の住民だけではなく、遠い山間部の他の村や町、時には10万人都市である八代市なんかの人々が、待ち合わせをするようになり、宮原町は一気に活気づいた。

「和光ショッピングセンター」の中に、どんな店舗が入っていたのか、思でもリアルにあの頃の様子が想い起こされる。
僕の友達の家が営業している魚屋。
先輩の家の肉屋。
ここの肉屋は店先で「惣菜」も販売していた。
靴屋、洋装店、八百屋、お菓子屋、文房具店、化粧品店、電気店兼レコード店、床屋、食堂、薬局、そしてその頃は、まだ珍しい水洗トイレが完備されてあり、二階以上は、住人用の、3LDKの居住スペースになっていた。
「高度経済成長」の当時、大都市でもそうであったように、プリンの住む熊本の田舎でさえ、新型住宅は3LDKの居住スペースを、未来型居住スタイルとして取り入れていた。






「じゃ、すぐけえよ」
僕達は小学校からの帰り道、通常の路なんか通らず、れんげ草が咲き乱れる田んぼの中をふざけ合いながら、今から始まる楽しい時間の過ごし方を詮索していた。
裕則は、ぴちぴちに張りつめている半ズボンと、白のポロシャツ姿で僕らを誘う。
裕則の家はついこの間完成した、「和光ショッピングセンター」で魚屋を営んでいる。
引っ越してきて2階の居住スペースで暮らしている。
僕らは、好奇心旺盛で、新しもの見たさが先走り、
「家を見せろよ」
と催促したという訳だ。
家にランドセルをぶり投げて、近所である裕則の家に集合すると、それまで立ち居ったことのない空間に案内された。
近代的なその空間は、今まで知っている和風の空間とはずいぶん違っていた。
例えば台所なんてステンレスのセパレート式だし、トイレも今風の座型で水洗である。
「すげぇーなぁー」と、みんなつぶやく。
そして着る物はく物すべてが、近代的で、どこか時代を先取りしたかのような羨ましさを思い出す。
僕は、それまで見たこともない一足の靴に目を止めた。
「これ、何の靴ね」
「そら、サッカーボールばける時にはくとや」
と裕則はかえす。
「それ、もう小さかけん、やるよ」
「よかっや」
と一言いい、僕はそのシューズを家に持ち帰り、まるで宝物のように扱ったことを思い出す。







「おばさん、フォリナア出とるね」
「おばさん、ボストン来とるね」
僕が中学生の頃から目覚めた、「洋楽」のレコードを、和光ショッピングセンターの、沢永電気店に買い求めに行くときの会話だ。
あの頃は、LP一枚が2500円した時代である。
その頃は小遣いをためては、すべてがこんな風にLP盤に替わっていた。
目当てのレコードが発売され、2500円と引き換えに手に入るあの瞬間。まるで大切な「宝物」を、掘り当てたかのような錯覚を持った。
電気屋のおばさんが、レコード盤を取り出し、確認し、レコードスプレーを噴射し、クリーナーで吹き上げ、つるつるの真新しいビニールカバーにジャケットを入れてくれる。
そして、丸めてある無数のポスターから
「どれか一枚好きなものを持ってってよかよ」
という。
あの頃のピュアな気持ちを思い出す。
40年経った今でも、僕の書斎兼ホビールームのターンテーブルの横には、100枚以上はある、当時のLPジャケットとレコードは健在で、毎日あの頃のミュージックを流してくれている。






大学3年生の頃だっただろうか。
やはり部の夏休みで帰省していた時、和光ショッピングセンター前の、バスターミナルの待合ベンチに、2年前の夏、「恋」をした女性の姿を見かけた。
あの頃と変わらない姿で、突然僕の目の前に現れた。
でも僕の隣には大学の同級生で、僕の帰省に便乗し、熊本に遊びに来ていて、その後、箱根駅伝10区で区間賞を取ったマルがいたため、素知らぬ顔でやり過ごしてしまった。
一足先にマルが広島に帰省し、一人になる時間があったけど、和光ショッピングセンターを国道3号線で隔ってた場所にある、喫茶店ドルチェに行く気持ちが湧いてこなかった。
あのころ僕は、新しい「恋」をしていた。







小学生の頃は毎日、制服姿で和光の駄菓子屋に通った。
目的は、「カルビー仮面ライダースナック」である。
このお菓子を20円か30円か値段はもうおぼろげだけど、とにかく買えば、その頃ガキどもの間では爆発的な人気の、「仮面ライダーカード」を1枚くれるという訳だ。
カード目的に、食いもしない「仮面ライダースナック」を買いまくっていた。
当時の小学校の担任の先生から
「近頃、仮面ライダースナックを買っても食べずに捨てることがあっているようなので、くれぐれも捨てずに食べるように」
「食べ物を粗末にしてはなりません」
との指導の言葉が懐かしい。
あの頃、僕らの間では、仮面ライダースナックは、「捨てるもの」との認識で、20円か30円を出して、中にどんなカードが入っているか分からない紙袋に入っている、「仮面ライダーカード」を買う意識であったことは確かだ。






宮原町の7月29日、8月23、24日に開催される、「祭り」の裏方の会場となっていた和光ショッピングセンター。
大学を卒業後、地元で就職をし、たまに実家に帰省するときは、この祭りの日が多かった。
和光のバスターミナルの広場では、ビヤガーデンや創り物、カラオケステージなんかが催され、多くの人の笑顔で会場はごった返していた。
そのわきの出店のキッチンでは、「焼き鳥」を焼いたり「生ビール」を注いだりしている裕則の姿があった。
ハッピ姿に、タオルをねじり鉢巻きのようにして、祭りを楽しんでいた。







ガキの頃、和光ショッピングセンターが僕らの溜まり場だった。
用もないのに、毎日学校から帰ると和光に行った。
そこに行くと、必ずだれか友達に会えた。
暗黙の待ち合わせ場所みたいに。
店内は、夏には冷房が、冬には暖房が効いていて、あの何ともいえない、都会を連想させる「匂い」がたまらなく好きだった。
僕の顔を見ると、裕則のお母さんである、魚屋のおばさんが、すぐに声をかけてくれた。
「プリンちゃん、魚見ていかんねぇ」
そして、僕は飽きもせずに、砕かれた氷の上に並べられている、「魚」を、毎日見るのが楽しみとなっていた。
多分、今の漁師プリンのルーツになっていたんだと、この頃思う。






和光ショッピングセンターが閉鎖されたのは、いつの頃だっただろうか。
僕は、実家のある宮原町に住んではいない。
たまに、年老いた両親を訪ねるが、いつ頃だったか、記憶は定かではない。
とにかく和光ショッピングセンターは「閉鎖」されることになったようだ。
中に入ったことが、10年も経つとは思うのだが、1回だけあった。
それは、幼少の子供たちを連れて、確か夏祭りに実家に寄った時だったと思う。
店内は40年前の全盛期とはうって変わって、客が少なく、閉鎖されなくなっている店舗もあった。
オーナーたちは、高齢となり、店内には活気もなく、ひっそりとこの世から忘れ去らてた場所のような錯覚に落ちいってしまい、まるで逃げるかのように、子どもたちを連れて、そそくさと家路についた思い出がある。
そして僕が50になった年、テナントの応募もなく、立ち入り禁止のテープが巻かれ、解体工事が始まった。
約40年だろうか。
僕の人生は、この「和光ショッピングセンター」と共にあったといっても過言ではない。
それほど多くの思い出がある。
あのころの活気に満ちた店内。笑顔で行きかう多くの人々。目を閉じれば、走馬燈のごとく、あの当時の様子が回想される。
その後、入植していた店舗はどうなったんだろう。
肉屋は独立して大きな店に様変わりしている。あとは分からない。
同級生の魚屋は、跡取りのはずだった裕則が急死し、両親も早くに他界されたため、店自体がなくなった。
今となってはあの頃の華やかさは、「夢」や「幻」だったのだろうか。
約40年前に突如として僕の生活に中に出現し、突如としてなくなった和光ショッピングセンターは、人間の肉体が生まれて、成就し、果ては老化し、朽ち果てるかのように。時の流れの儚さを教えてくれた。
もう僕の両親も他界してしまい、今はもぬけの空となった実家が、あの頃の繁栄を知らしめる墓標のようにむなしく、空虚感を漂わせている。



今は市町村合併で、僕が過ごした故郷、宮原町は、「氷川町」となってしまい、心理的な故郷「宮原町」はなくなった。
もう、宮原町へは帰りたくない。

僕の故郷、「宮原町」は僕の心の中に息づいている。
今日も、あの頃買ったLPレコードが、40年前と何にも変わらない音楽を流している。
小学校への登校時、稲刈りが済んだ田んぼには、丈の短い「イ草」の苗が植えつけられ、水が貼ってある。
連日の寒波のせいで、田んぼは真っ白な、氷一面の姿に変わり、僕たちガキの興味を引き付ける。
ガキどもは、歓声を上げ、その上を歩いてみたり、氷を割ってみたりしながら、学校へ向かっている。
もう12月だ。

相変わらず、汚れた半ズボンに白の半そでシャツ姿のガキどもが多い。
中には一年中鼻水を垂れながら、その出で立ちで過ごす奴もいた。
まだ昭和50年である。
僕たちは、最上級生となっていた。あと一ケ月で「正月」である。

小学校の頃の僕は優等生であり(多分)すべての授業が楽しかった。
特に体育の授業は得意で、鼻を高くしていた。
この時期の体育の授業は、「持久走」である。
年明けの「校内マラソン大会」に向けての練習だ。
毎日、高学年男子は5kmを走るわけだ。
僕はクラブ活動には入っておらず、帰宅組で連日山や川に出かけては遊びほうけていた。
だけど、こと「マラソン大会」において、過去5年間の成績はトップ5以内にはいつも入っていた。
多分親のDNAの恩恵だったと思う。(その事については、後日紹介します)
授業では、みんな怠けて力を抜いて走っていたと思う。が、僕だけは、最初からぶっ飛ばした。
とくに、最上級生となった今年は、ひそかに「優勝」を狙っていた。






僕の同級生には、少年陸上部や野球部に入って、力を持っている奴が2人いた。過去に勝ったためしがない。
でも、今回は、早朝の6:00から始まる、近所の三神宮から走る、「早朝マラソン」の、宮原走ろう会のおじさんたちに混じって走り、練習を積み重ねていた。
冬休み中、雪で山が真っ白になった日でさえ、父親から買ってもらった上下赤色のジャージを着て走った。

何故「優勝」にこだわったか。
その最たる理由は、いつも優勝しているヤツが「鼻持ちならなかった」からだ。
当時は、今風の「ジャニーズ系タレント」なんてそもそも存在しない時代で、少々運動ができて、走るのが早ければ、誰でも、女子にもてにもてていた。
今風に言い換えれば、そいつの努力もしないで、少々の能力にかまけて、振舞うその態度が気に食わなかったという訳だ。
多分、年を重ねた今の僕は、あの頃と何も変わっていない性格なんだろうと感じる。いつまでたってもガキなんだよなぁー。

そんなわけで、かっこつけのヤローを、力ではなく、正々堂々と「スポーツ」でぶっ飛ばしてやろうと考えたわけだ。
でも、毎日孤独に走っていると、あることに気が付いた。
「走ることが、クソ面白い」
という事に。





1月の天気が良く暖かい日に、小学校の「マラソン大会」が始まった。
コースは5km。それも山の中を走る厳しいコースだ。
5、6年生スタートの前、鼻持ちならねぇーヤローは、バカタレントに群がるが如く、男を見る目がない女どもに囲まれて得意になっている。
いよいよスタートだ。少しの緊張が僕の身を包む。
号砲と同時に5,6年生120人が一斉にグラウンドを走る。
どこからか、鼻持ちならねぇーヤローに、「黄色い声援」が飛ぶ。
ガキの俺は、そのことで、よけいアドレナリンが分泌されたことは言うまでもない。
でもそんな事がよけい気持ちを奮い立たせることにつながった。
僕は意識を走りに向けた。
最初から全開だ。





ペースなんて学習もしてないし、とにかくぶっ飛ばしにぶっ飛ばした。
今でもあの時の爽快感を覚えている。
1km位で山に入る。
起伏の多い路が、次第に僕の足から力を奪い、代わりに鉛をつけられたかのような錯覚に落ちる。
息が上がる。
白く吐く息とともに、耳が聞こえなくなる。
沿道のおじさんやおばさんたちの応援も聞こえない。なにか、細切れの映画フィルムを見ているようだ。
意識が飛ぶような苦しさの中、後ろから気配だけは感じ取れる。それもかなりリアルに。
何故だかその時だけ周りの応援の声が聞こえた。
と思うそばから、いつもの優勝者、あのヤローに並ばれた。
残り2km位はある所だ。

ついていこうにも体がいう事をきかない。
あっけなく、ヤローの背中を追うはめとなった。その背中も、次第に遠のいていく。
悔しいと思う余裕さえない。何にも考えられない。視界が上下左右に揺れる。
「くそきちぃ」
でも、小学校時代最高の2位でゴールした。





あの時の、「全く嬉しくない気持ち」を今でも振り返ることができる。
担任の先生から、褒め言葉をもらったことは覚えているが、なんという言葉だったのかは思い出せない。
悔しさが僕の体を支配していた。

遠目に、女子や仲のいい男子に囲まれ、得意になっているいるヤローの姿だけは、今でも瞼を閉じれば蘇ってくる。
あの出来事が後の「マラソンランナー、プリン」のルーツになった。
いつの頃からだろう。
宮原町を、東の九州山地から西の不知火海へ向けて流れている氷川で、釣り糸を垂れるようになったのは。
一度、田中釣具店で親父から買ってもらった980円ぐらいの、くそ重いグラスロッドに、玉浮きと釣り針がセットになっているヤツを括り付け、近所のガキどもを従わせて、歩いて10分ぐらいの氷川の「はね(石積みで川の中に突き出している場所)」に出向いた事がある。

氷川は満々と水を溜め、青々とした色を放っていた。
まるで「ガキどもの来るところじゃない」。とでもいっているようだ。
少々の恐怖心が、僕の気持ちを鈍らせる。
案の定、斜面に竿を置いてエサをつけていたら、するするっと、物がかすれる様な音がしたかと思うそばから、くそ重いグラスのロッドは、静かに青々とした氷川にのみ込まれていった。
まだ、一投も竿を振っていなかった。
これが僕の人生初の釣りであり、釣りの神様から洗礼を受けた瞬間である。

竿が埋没した辺りには、赤と黄色の玉浮きだけが、そのありかを示すように、ぷかぷかと浮いている風景を思い出す。
取りに行けるはずもなく、
「あーあ、しゅうちゃん(注:僕のあだ名)の竿」
なんて、落胆のため息とも思えるか細い声を聞いた時、僕は自分が犯した罪を自覚するようにうなだれた。

年下のガキどもの前でもあり、泣くに泣けず、後ろ髪を引かれる思いで氷川を後にしたことが、つい昨日のことのようだ。
家に帰ると母親から
「あんな危ない所へ行って」
と、こっぴどく言われ、
「命まで取られんで良かったねぇ」
と、慰めなのか叱責なのか分からない言葉を思い出す。
まだ、僕は小学生にも上がってなかった。






「おじさん、サバ虫10グラム下さい」
初夏を迎えようとする、土曜日の昼過ぎ。
僕はいつものように一人で田中釣具店に来ていた。
おじいさんは、慣れた手つきで、サバ虫が入った入れ物から、スプーンで計りの上にサバ虫を乗せている。
10円を払い、氷川のいつものポイントへ自転車を走らせる。

太陽はまだ高く、空気は暖かい。
家にあった4本継の「竹竿」を伸ばし、仕掛けをセットして、浅瀬から氷川に入る。
水はひんやりと、しかし初夏の温さで気持ちいい。
透明に澄んだ水面に、西に傾いた太陽がキラキラと輝きを作っている。氷川の岸寄りには「葦」がその緑色を濃く水面に映している。
ポイントだ。

流れの下流から、「ハヤ針」にサバ虫を掛け、軽く竿を振る。
澄んだ水面に朱色の「唐辛子浮き」が良く映える。
氷川に掛かる、国道3号線を行きかう車の音が聞こえるが、この瞬間、周りの雑踏がまるで耳に入らない。
氷川の澄んだ青と、葦の緑に、自分自身が溶け込んだ錯覚に落ちいる。
静かだ。
時折せせらぎが聞こえる。

何投か竿を振るうち、「すっ」と朱色の唐辛子浮きが水面から消える。
当たりだ。
軽く合わせると、竹竿に魚の手応えが伝わる。
抜き上げて手に魚をとる。
きらきらした銀色の「ハヤ」だ。
青臭い匂いが鼻をつく。何とも言えない瞬間だ。
こんなことを、日が傾くまで楽しむ。
大きな手応えだ。
しばらくのやり取りの末に近寄ってきたのは、20㎝位の「オイカワ」だ。
銀色にライトグリーンとオレンジ色が映える。
魚を手に取る時だけ、周りの雑踏が耳に入ったのは何故なんだろう。





僕はあの時こう思った。
「この時が永遠に続かないかなぁ」
と。

今でも氷川の水面の青さと、太陽の反射するきらめき、静かに流れに乗る朱色の唐辛子浮きや、せせらぎの音をはっきりと覚えている。
自家用車が無かった僕の家の唯一の「お出かけ」と言えば、当時は珍しいデパートである。
今でさえ、イオンや夢タウンなどの、大型複合商業施設は数多くあるが、当時は「太陽デパート」が唯一のお買い物先であり、都会の象徴であった。
幼稚園にも通わない頃から、ごくたまに両親に連れられて、「九州産交バス」に乗り、約2時間、「車酔い」にさいまれながら、熊本市の「太陽デパート」へ行った記憶がある。
なぜか父親は「三つ揃いのスーツ」に「パナマ帽」をかぶり、母親は「ドレス」に「日傘」を必ず持っていた。
当時は最先端であったと思われる10階建ての大型ビルに、ありとあらゆるもの全てが、そこにはそろっていた。
僕のお目当ては買い物なんかではなく、昼までの少々の時間、両親の買い物に付き合えば、その後は9階の「レストラン」での昼飯が待っていた。





「レストラン」なんてものは、今の時代履いて捨てるほどあるだろうけど、当時はガラスのショウウインドーに陳列された、あの旨そうな食べ物が、入り口にどーんと置いてある風景を今でも思い出す。
子ども心に、「あんなふうに一日中食べ物を見世物にしていたら、腐るだろうなぁ」と、真剣に思っていたことがおかしい。
あれは「作り物」であるという事を後で知った。
Aランチ、Bランチ、カレー、スパゲティ、オムライス、アイスクリーム、コカコーラ、キリンビール・・・なんか、今では誰も見向きもしないだろう。
でも40数年前、それらはとびっきりのご馳走だったことは事実である。





子どもには退屈でつまらない買い物に付き合い、12:00を迎えようつする時間。太陽デパートの9階、レストランの席についていた。
僕は迷わず、「Aランチ」を頼んだ。
何故かと言えば、現代みたいに小学生の頃から「英語」なんて習っているはずもなく、AかBかと問われたら、Aの方が先に出てくるというだけで、「価値」が高いと思い込んでいたわけである。
周りのおかっぱ刈り上げカットの僕みたいなガキどもは、みなそろって「Aランチ」に「アイスクリーム」を頼んでいた。

だだっ広い食堂は、折りたたみの簡易テーブルに純白のテーブルクロス(と言っても、ただの白い布)にパイプ椅子みたいな感じの椅子が数多く置いてあるだけだが、何故か高級感を醸し出している。
そこに座るだけでも、今から訪れるであろう「至福の時間」を感じずにはおれず、バニーガールと見間違える風貌のおばさんが「注文」を受けに来るやいなや、迷わす「Aランチ」に「アイスクリーム」と毎回連発していた。





銀の皿に、ウインナー、ハンバーグ、キャベツの千切り、カットトマト、スパゲッティ、まんまるポテトサラダ、富士山風焼き飯とその上に、楊枝に紙を巻き付けた日の丸が立っていた。
当時、子ども心をくすぐる一品であったことは、間違いなかった。
たまに、欲を張り、それに「スパゲッティ」なんかを頼んで、親に後処理してもらうこともあった。
今思い返せば本当に「平和」でいい時代だった。

その後は必ず屋上の「遊園地」へ行き、乗り物に乗った。
一度、「コーヒーカップ」みたいなやつに乗り、レストランで食ったごちそうを全て台無しにしてしまった覚えがある。
それ以来僕は、今でも「コーヒーカップ」みたいな、ぐるぐる回るやつには絶対に乗らない。
そのルーツはあの時の経験からきていると改めて自覚した。





あの時代、ガキどもの最高のお出かけ先は「太陽デパート」だった。
その太陽デパートは、昭和48年。僕が小学校4年生の冬、日本のデパート災害として史上最悪の火事にみまわれれた。
でも、あの頃の平和な思い出は、「セピア色」に変わっても、僕の記憶にしっかりと刻まれている。
昭和40年代。もう半世紀が経つのだろうか。
あの頃は、何もかもが新鮮で、多彩で、その一つ一つの出来事が、鮮烈に記憶に残っている。
まるで玉手箱から引き出される宝物みたいに、今も僕の脳裏の内に刻み込まれている。





「今日は昼めし食ったら、氷川の堰で遊ぼうや」。
義一ちゃんは、汚れた半そで半ズボン姿に、古びたランドセルの背中で誘ってくる。
「俺は15:00から習字があるけん、それまでなら良かばい」
と返すと、義一ちゃんは振り返り、少し寂し気な表情で、
「今、アユの良かったい」
と。習字という、自分には無関係の、何か強大な権力にあらがうように、僕を誘い返す。





昭和48年。僕らは小学五年生となっていた。
空はどこまでも青く高く、空気はほんのりと甘酸っぱい匂いを含んでいた。
田んぼには、一面「れんげ草」が緑と桃色のじゅうたんを敷き詰めている。
そう、もうじきアユの解禁なのだ。

やはり義一ちゃんは、僕らの仲間内では、氷川の主と一目置かれ、すでに今シーズンの氷川の状況は全てといっていいほど、頭脳の中にインプットされているようだ。
でも僕の家は、少々厳しく、習い事をすっぽかして遊びに行くという勇気が湧いてこない。





「ゴメン。やっぱり習字には行かんばんあかん」
胸にくぎが入ったような心苦しさで、義一ちゃんに時間の制約をした。
「しょんなかたい。そんなら13:00に氷川の堰でよかや」・・・と。
また、何か思いもつかない面白いことが、一時間後に経験できるという、期待感がすでに僕の気持ちを占領してしまう。





「おい、こっち。すごかばい」
と、義一ちゃんが僕を呼ぶ。
義一ちゃんの、ところどころ破れが入った「網」の中に、数え切れないほどの「稚アユ」が、ぴちぴちと跳ねている。
「すげー」
と言ったきり、義一ちゃんの網を眺めていると
「そこの溝ば、さろてみてんか」
という。

ここ、新村の堰は、不知火海から遡上してくる鮎が、一担溜まる場所で、上流からの流れ込みのある狭い溝には、この時期、無数の稚アユが遡上できずに溜まるわけだ。
義一ちゃんはそんな事は良く知っている。
山にしろ川にしろ、すべての情報が頭に入っているわけだ。それも一年サイクルの莫大な量が。
僕はそのころ思ったことがある。
テストなんか、学年最下位をウロウロしているけど、もし本気で勉強をやったら、義一ちゃんは間違いなくトップ近くになるんじゃないかと・・・。
それほど好きなことには没頭していた。
そして、その情報量をインプットしておくキャパシティが大きいんだろうと。

そんな思いを奥歯にかみしめて、言われた通り僕の破れのない、つい最近「田中釣具店」で買った300円の真新しい網を入れてすくうと、一気に重くなった網の中には、数え切れないほどの「稚アユ」がぴちぴちと群れていた。
そして「鮎」が放つ、あの独特のスイカの匂いが鼻先をつく。
一すくいで魚籠いっぱいになる。
数回もすくうと、魚籠は満タンだ。
15:00までもかからす、1時間ほどで、楽しい遊びは終わりを迎えるわけである。
「こぎゃんアユば捕って、見つかったらおこらるっどねぇ」
と、義一ちゃんに言うと。
「見つからんごつ、袋に隠して帰らんばんぞ」。
と命令される。
流石は「氷川のボス」である。





「うんならね。また遊ぼうや」
と別れを告げると、
「甘露煮にしてもろたら旨かぞ」
と、料理の仕方まで世話してくれる。
当然僕の家に持ち帰り、ばあさんに、
「鮎だいけん。甘露煮にしたら旨かてよ」
と、山ほどの「稚鮎」を手渡すと。
「えらい沢山あるねぇ」
と、感心しきりで僕を見ていた、ばあさんのあの表情は今も思い起こすことができる。





あれから40年以上が経った。
今は、宮原には住んではいない。
あの頃の堰もなくなった。
氷川の水量も少なくなった。
あの頃、ミカンの花が、甘酢っぱい匂いを春風に乗せ始める頃、氷川にはたくさんの釣り人が、長い釣り竿を何本も出していた。
そんな、大人の目をかいくぐって、大人たちの目的の魚である「鮎」を、小学生だったプリンたちは、根こそぎかっさらっていた。
ワンシーズン五千円もする、漁業権である「観察」なんか屁とも思わず。





目を閉じれば、汚い白のランニングシャツに、学校の灰色の半ズボンをはいた、氷川を背にした義一ちゃんの姿が蘇る。
大人をしり目に、悪ガキどもの行いが、胸をすく。

今の時代に映し返ると、社会を取り巻くご都合主義の大人の屁理屈や、腐ったルールに反する行動として思い返されて、思い起こすたびに愉快になる。

あの頃、僕たちは日本という強大な国の将来を託されていた一人の悪ガキだった。
空気の色が限りなくクリアな色合いに変わり、その代わりに落葉樹が色ずく頃。
そう、秋の深まりを肌で感じたり、風の匂いで感じたり・・・。
金モクセイの匂いが秋の訪れを実感させてくれる頃、小学生だった僕は、同級生の義一ちゃんといつも行動を共にしていた。





「もうクヌギのヨカ頃だろね」 
と義一ちゃんが言う。
それは小学生の僕らにとっては、冒険心と悪だくみと、少々の罪悪感が同時に胸の内に湧き上がる合図である。
・・・そう、あの頃はいつもこんな気持ちを期待していた。

それは小遣いもろくにもらえなかったあの頃の僕にとっては、正月用の「駒」や、あの頃のはやりで、誰もが欲しがっていた「ゲイラカイト」や、プロペラ付きの模型飛行機に、その空想はリアルに形づくられていくわけだ。

ようするに「小遣い稼ぎ」の合図である。
盛夏のうちには、僕たちに「くわがた虫」や「カブト虫」の恩恵を与えてくれた「クヌギの木」。
秋の深まりとともに、今度は「小遣いの実」を与えてくれるわけだ。





「どんぐり拾い」
何回、義一ちゃんと秋山に登ったかは記憶が定かではない。
「山の主」と僕たちの仲間内でその存在を認められ、一目置かれていた義一ちゃんは、いつ、どこのクヌギの木が良いか、よく知っていたことは事実だ。
土曜日の放課後や日曜日、僕は義一ちゃんと山裾のお決まりの場所で待ち合わせた。
慣れた足取りで山中に進む義一ちゃんに、10分も付いていくと、頭上には黄金色に衣替えした、クヌギの葉が生い茂る場所にたどり着く。

「拾うバイ」
と義一ちゃんの合図で、草むらに落ちている「どんぐり」を拾い始める。
小一時間も拾うと、義一ちゃんが持参した「肥料袋」はもうパンパンの満杯だ。
それを二人で抱えて山を下る。
五段ギヤのついた自転車の荷台に、ゴムひもで括り付けたら、別段、合図も交わさず二人いつもの店へ直行する。
目的の店は、宮原町は国道三号線に面して佇む、「田中釣具店」だ。




ここ「田中釣具店」は、年老いたおじいさんとおばあさんが経営している。
当時、釣具店や、駄菓子屋、薬局なんかは、窓口に、「たばこ」の看板を下げ、たばこの販売もしていた。
僕の家の近くでもあり、たまに「ハイライト」一箱を親父から頼まれ、お使いに通っていたことで、おばあさんやおじいさんとは顔見知りなわけだ。

店の入り口近くに自転車を止め、義一ちゃんと約10キロぐらいはありそうな「肥料袋」を店の中に運び込むと・・・
「ぐめんくださぁーい」
と義一ちゃんが声を張り上げる。
奥からおじいさんが、いつものカウンター兼ショウウインドーの前にのっそりと現れて胡坐をかき
「おお、だいぶ拾おたねぇー」
と感心した眼差しを僕らに向けて微笑んでいる。
そのうちに、計りの木の「一升舛」で、肥料袋の中からどんぐりをかき出し始める。
あの頃、「一升」なのか「1k」なのか、値段の単位は覚えていないが、確か引き取り額は二人で山分けしても一人千円以上はあったことだけは覚えている。良い小遣い稼ぎだ。






「クヌギのどんぐり」は、釣具店で寝せて、「どんぐり虫」を培養する、大基となる貴重な材料という訳だ。
あの頃、僕は良く宮原町を流れている、「氷川」に「ハヤ釣り」に出かけた。
その時は、決まって「田中釣具店」で「サバ虫」を10グラム10円で買っていた。
それだあれば、半日は楽しめる。
でも、「どんぐり虫」は確か、10グラム30円だったような記憶がある。それだけ高価な餌なわけだ。
約10kのどんぐりから、果たしてどのくらいの、「どんぐり虫」が出来上がるか・・・子ども心にはわからないが、多分・・・いや、決して損をする取引額ではなかったとは思う。





あの頃のおじいさんたちの生活は、釣具店経営でも、決して裕福とは子供から観てもそうはおもえなかった。
でも生きていく上では足りていたんだろう。
そして、季節が変われば、孫にあたる僕たちみたいなガキが、「どんぐり」を持って取引にやってくる事なんかが、本当は利益抜きで、楽しく、幸せだったのかもしれない。

この年になり、あの頃の回想をするに、にこやかなおじいさんやおばあさんの笑顔を思い出す。
もう40年以上も前の話だ。
今は国道3号線の拡張により、「田中釣具店」のあった場所は歩道に変わり、その面影すらない。
でも、確かにあったんだ。


「田中釣具店」


いまは、僕の思い出の中に、あの頃の、おじいさんやおばあさんの笑顔。
あの古びた「田中釣具店」や、義一ちゃんの大人びた、すました横顔が生きている。



毎年秋風が、金モクセイの甘い香りを、澄んだ空気に乗せる頃、あの頃の風景が蘇る。

黄金色のクヌギの森が、僕の脳裏に広がる。永遠に・・・

僕が死ぬときまで。



時間は止まることなく永遠に流れていく。
人生は「思い出」で形成されている・・・とある小説家は言っていた。
確かにそうなんだ。
どんなに金持ちになったって、どんなに生活を裕福にしたって、どんなに社会的地位を上げたって、どんなに友をたくさん作ったって、どんなに女を何人も囲ったって・・・そんなものは時間という永遠の流れの中にあっては、ただの水上の葉でしかない。
今の現実は今だけしかない、流されて終わりさ。
だから人は、自分にしか持ちえない、生きているうちには絶対流されない記憶。
「思い出」を創るんだ。
色んな、いい経験を積むことを望んでいる。その積み重ねが「人生」になるからさ。





~宮原町物語~





昭和38年、東京オリンピック前年、ベビーブーム、高度経済成長の真っただ中に、僕は四人兄弟の3男として誕生した。


宮原町・・・
熊本県の別称である、「火の国」。その発祥の地と誰がいったのか、本当なのかは、いまだに謎が残る宮原町は、八代平野に位置し、九州山地から不知火海にそそぐ二級河川、氷川の流域に位置した、こじんまりとした町だ。

昭和38年当時は、まだ国道3号線は、アスファルト舗装ではなく砂利道で、至る所に水溜りができる状態だった。
町中のほとんどの道がそんな状態で。いまだ馬車が通っていることさえある。
青色ラインが目印の九州産交のバスは、オート三輪で、砂ぼこりを上げて往来していた。
その横を、自転車や、ヘルメットを着けていないオートバイや、歩行者が往来している。道路には路側帯なんて気の利いた物はなく、いつ事故に巻き込まれてもおかしくない状況だと、今の時代しか知らない者は想像するだろう。でも、めったに交通事故なんかは起こらない。それは、車の絶対数が限りなく少ないからだという理由からだ。
ガキどもは、その横を我が道顔でふざけて往来していた。

家電製品は珍しく、街の電気店では、大きな箱型のテレビや冷蔵庫、洗濯機が、品数も少なく陳列されている。
ほとんどの家は、「テレビ」や「冷蔵庫」や「電気洗濯機」などがそろっている事は無く、寒いときには「練炭」や気の利いた家では「石油ストーブ」。暑いときは「扇風機」が動いていた。

家族構成は、その多くが直系家族で、僕の家も例外ではなかった。
僕の家では近所では珍しい、「白黒テレビ」が置いてあり、夕方ともなれば、毎日見ず知らずのおじさんたちがきて、祖父が話しの相手をし、プロレス中継を見て帰っていく。

それが昭和43年頃、通りの電気店に陳列されていた、あの大きな木の箱みたいな「ナショナルカラーテレビ」に変わった。
なぜか、カラーテレビに変わった頃から、いつも来ていたおじさんたちの姿をみなくなっていた。
少々の遠慮なのか、もしくは自家用のテレビを購入したのかは、分からないが、とにかく、カラーテレビは、純粋に僕の家の一員となったわけだ。
漫画の時代は、「変身特撮ブーム」に入ろうとしていた。

学校から帰って来てからまずやることは、ランドセルを脱ぎ捨てて、四畳半の茶の間で新聞のテレビ欄を見ることである。
たいていはPM5:00からが漫画の始まりで、それまで近所のお宮(三神宮)や、田んぼで、同じ部落のガキどもと(あっ、俺もガキか)ほこりまみれになりながら遊ぶことが、あの頃のガキの正しい遊び方だった。

毎日午後5:00になると、三神宮の鳥居の下に「紙芝居」のおじさんが自転車で現れ、「カン、カン、カン・・・」とガキどもを集める木打ちの合図で、どこからともなく30~40人位の、ハナたれのガキどもが男女関係なく集まってくる。
みんな手には10円を握りしめていて、それは今日の「紙芝居」の視聴料となるわけだ。
その10円をおじさんに渡すと、木箱の引き出しの中から、割りばしに水あめをこねつけて、その上に酢昆布を一枚ひっつけてくれた。
今考えると、公衆衛生上、保健所からストップが掛けられることは必至のことだろう。でも45年も昔の事である。「0-157」や「ノロウイルス」なんて聞いたこともない時代だ。
少々の腹痛や風邪の類は、近所の病院へ生き、ぶっとい「注射」を2本ぐらいうつと、次の日はけろりとしていた頃だ。もっと鈍感なヤツは、熱が39度あるというのに、平然とみんなと戯れている事さえあった。

その水あめから、酢昆布を口でかみながら、割りばしを割り、ぐりぐりと白くなるまでこね、紙芝居が始まるのを待つわけだ。
その待つ間のあの「ワクワク」とした気持ちは、今でも体感することがある。
「黄金バット」や「何とか金ちゃん」を、ガキどもは、まるで小学校の授業なんかでは見せない真剣なまなざしで、水あめをなめながら観ている。
これが終わると、家に帰る合図みたいに、蜘蛛の子を散らすように大勢のガキどもは一斉に姿を消していた。
地区放送なんかもない時代、すごいしつけだ。
これが、たまに道草でもくって帰宅が遅れようもすれば、親にしこたま絞られた。





午後5:00・・・週に1,2回は紙芝居に行かず、テレビの前に陣取った。
リモコンなんて気の利いた物はない時代だ。
僕は、画面に突如として登場する、赤白バイクにまたがる、大きな赤い目玉、赤いマフラーのヒーローを待ちわびている。
効果音とともに画面に現れるヒーロー。これが「仮面ライダー1号」である。子ども心に「すげぇー」と毎週見ていた。
すると、画面にくぎ付けとなっているそばから、足の悪い祖父が、椅子に座ったまま怒鳴りだす。
「こら!9チャンネル(NHK)に替えんか」
と・・・

そのチャンネルは大人の人気番組、「全日本プロレス」である。
ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、アントニオ猪木、大木金タロー、悪者は、スタンハンセン、ブッチャー、なんかで、大人はほとんどこれを楽しみにし、高度経済成長のストレスを和らげていたんだろう。






僕はじじいが足が悪く、動けない事をいい事に、いう事を聞かずに相変わらず「仮面ライダー」を観ている。と、祖母が現れて
「これこれ、じいさんはプロレスば楽しみにしとらすけん、替えなっせ」
というわけで、あえなく画面は「プロレス」に切り替わるわけだ。
なんという「年功序列」、「敬老社会」、「大人有利」、「大人権力」・・・ガキは黙って従うほかない。
でも・・・今考えると、こんな家庭あるだろうか?
ガキが素直にいう事聞きますかね?いまは、家族でも大人がガキに変な気を遣い、好き放題じゃないんでしょうかねぇ。






昭和のガキどもの「躾」は、裏返せば「理不尽」であった。
45年後の僕にとって、ありがたい「躾」であったことは、間違いではない。
ガキがガキの頃に大人の「躾」を理解できるわけがない。
あの頃(昭和)の大人はそのことをきちんと理解していたんだと思う。
そして、その時代に理解してもらえない「愛情」で、ガキに接してくれてたんだと。

今、僕が生きていられるのも、あの頃の家族の「愛情」だと痛感している。
そして時代は激動の昭和後半に差し掛かろうとしていた。