2016.12.09 弁当箱
昭和51年。中学へ入学することになった。
僕としてはまだまだ小学生でいたかった。
その頃、進学する中学校は、今風で言えば少々荒れているという噂がたっていた。
この人事みたいな言い方は、僕がそうであると見たわけでもいないし、経験しているわけでもないからだ。
僕の母親が、いつもの和光ショッピングセンターで繰り広げられる、16:00からのおばさんたちの井戸端会議で単に仕入れてきた情報を基に大人たちが詮索したことである。
とはいっても当時はどの中学校でも、先輩たちはみな怖いという、小学生ならではのイメージは拭い去ることはできなかった。

中学校は、現代みたいに「給食」が未だ普及しておらず、「弁当」を持って行くことになっていた。
小学校、幼稚園と、あの時代には珍しい「給食」の恩恵にあずかっていた僕にとって、初めての「弁当」持参での登校は、一人で富士山へ登頂する位、未知の世界で怖かったことは事実だ。




当時、親が子どもを連れてのお出かけは「太陽デパート」が定番であった。
小学校を無事卒業した僕は、母親と二人で隣の八代市へ春休みを迎えた頃、進学準備と称して八代太陽デパートへお買い物へ出向いていた。
実は太陽デパートは、熊本市と姉妹店で八代市にも存在していた。
屋上には熊本の本店同様、乗り物などを設置した家族や小さい子ども向けのミニ遊園地が完備されていた。
やはり僕はお買い物より、昼時のAランチと、その後の屋上での憩いの時間を目的としていたことは言うまでも無い。



ここで少しお買い物のお話に戻ろう。
四月から中学生となる僕の準備物は、いくら義務教育とはいっても子ども心に「大変だなぁ」と感心するくらいの量であった。
まだ心の準備ができていないことも相まって、今でも続いているみたいだけど、黒の上下の「学生服」を試着するときの、何かステージ衣装を身にまとったかのような何とも複雑な心境は今でも思い出す。
「詰襟」と称する、プラスチックの型襟をはめる事なんか、「何で?」と不思議に思い出す。
これが、冬場に着ることになるわけだ。
プラスチックのあの冷たさが冬という季節に「くそ冷てぇー」なわけで、「なんでこんな不自由なものを着なければならねぇーんだよ」となるわけではある。
おまけに「学帽」と称する、あの頃はやっていた週刊漫画「少年チャンピオン」の漫画「ちびデカ」のこまわりくんが着帽している型と同じ帽子を着帽して通学しなければならず、めちゃくちゃ抵抗感があった。
今なら清志郎がRCのあとに結成した、学ランバンド(HIS)の影響で、喜んで学生服と学帽を着て、ギターを弾くかもしれない(ボーカルはなんと、あの坂本冬美さんなんです)

そんな僕が、3年生に上がるころには、先輩から譲り受けた七つボタンの裏に「ファスナー」が付いた、裏地には玉虫色の「虎」の詩集のあるやつを着る事になるなんて、夢にも思っていなかったことは幸せなことである。


そんな事で、幸せな僕は、食器コーナーで「弁当箱」をあれやこれやと物色していたわけだ。
「おっ、これが良い」
と手に取ったやつは、弁当カバーが飛行機の絵柄のやつで、ワンタッチ式のお洒落な「弁当箱」である。
「母さん。これでよっかよ」
と手に取った弁当箱を差し出すも、母は見るなり
「ウーン。そぎゃんとば学校に持って行ったら、先輩から目ばつけられるからねぇ」
と最終的に(現代もある?)
母親が手に取って僕の前に差し出した「弁当箱」は、何の変哲もないアルミ製の平ぺったい「弁当箱」であった。
僕はその時
「中学校って、そんなに怖い先輩たちがうようよいる所なのか」
と素直に恐怖心を悟った瞬間である。


かくして弁当持参の中学校生活が始まったわけである。
母親は、毎日今までとは違い、少々早起きをして弁当づくりに時間を費やされる生活が始まった。
ぼくは、「弁当」を持参することに対して、その頃は独断、特別な気持ちを持っているわけでもなく、弁当持参が「当たり前」であるかのような気持ちで毎日学校へ通っていたわけだ。
今、三人の子供の親となり、あの頃の母親の苦労が身につまされる。

また、現代社会では、小中学生の親の一部に「義務教育」の解釈を理解せず、逆手にとって、毎日自分のガキが消費している「給食費」を支払わないバカ親もいるみたいである。
「おい、お前、自分ちのガキの食いぶち位きちんと払えよ」
と言いたくなる。
生活が苦しい家庭じゃなく、収入もきちんとある親に限ってそういう輩が多いと聞く。情けないことだ。過去の教育の副産物だろう。
「義務教育は、てめーのガキの食いぶちまで面倒見てくれるのが当たり前」なんて考えているんじゃねーだろーな。
または、くそケチなのか。くそ怠慢なのか。くそ料理が下手なのか。だいたい理由は察しがつく。

ここ最近、「税金負担」が、何気に多くなったり、日本の「国債」が増え続けている原因の一要因であることはまぎれもないことだろうなぁ。




僕は毎日途切れなく当たり前の事のように弁当を持参し、昼飯の時間に弁当箱を開けて「びっくり」することもしばしあった。
「汁物」なんか入れてあれば最悪で、包のハンカチどころではなく、鞄全体に「汁」がこぼれ、時には「ノート」や「教科書」が台無しになったことさえある。
そのたんびに家に帰り母親に「文句」をたれるわけである。



時にはこんなこともあった。
季節は11月に入る頃だったと思うが、学校の計らいで、寒くなる季節は、弁当も冷えて生徒達が「かわいそう」だと考えてのことだとは思う。
二時間目の休み時間に、用務員さんが、火の入った「練炭」の丸火鉢を各クラスに持って来られる。
それを木製の「弁当温め箱」なるものに入れて、あとは、気の利いた者から各自、その上三段の棚に乗せて温めるわけだ。
僕ら悪ガキどもは、だいたい一番最後に入れていた。
何故かと言えば、「いい場所」があり、アホなやつらは一番最初にいい場所に入れるわけである。
ところが二時間目から昼までの時間があるわけで、僕らは、まず「早弁」と称してその頃にはもう弁当を食っていたわけだ。
今みたいに、教師がいちいち
「弁当は、どこで、何時になって、だれかれと食べなさい」なんて言う時代じゃない。

学校のルールが独断この弁当に於いてはないという事は、僕らにとってはリベラルな時代であった。
成長盛りで、10時過ぎには腹がすでにすくわけである。
そして、二つ目の弁当を、早くいい場所に乗せているヤロー達の弁当を、隅か違う場所に起き、自分の弁当を一番いい場所に置くわけだ。そんな時代が懐かしい。
もう40年前の事だ。

たまに、気に障るヤローがいると、そいつの弁当は「一番下」の棚のど真ん中に置き換えられた。すると、4時間目が始まって少したつと、廊下の方から焦げ臭い変な匂いが漂ってくる。
そいつは、焦げた飯を昼食うはめになった。


今の教育現場なら即教師が、「○○君の弁当を一番下に置き換えたヤツは誰だ」なんてやるのかなぁ。
僕らの時代は、された方もした方も、教師なんてはなっから頼ってはいなかった。(鬼みたいな先生ばっかりで、そんな相談なんてできるわけない)

僕らには暗黙のルールがあり、派閥もあり、された方は、なんでやられたか、の理由は自分でだいたいさっしがついた。
今なら「いじめ」なんて単一の理由で全てが理論づけられてしまうんだろうが、ガキの世界は大人が考えているほど、簡単じゃなく複雑だった。(現代も変わらないとは思うんだけど)
一見「いじめ」と、とられる現象でも、実は、ガキどもの内々の愛情だったりと。

その頃の先生たちは、そんな事は全部わかっていた。そして、何にも言わず、遠くから見守っていてくれた。
実際、今の時代なら大問題になるようなことも度々起こっていた。でも、大げさな問題になんて発展することは何一つなかった。

だから、プリンなんて大人でも、あの頃の先生たちの事はよく覚えている。厳しかったがストレートに「愛情」を感じた。



「弁当箱」に象徴されるように、プリンの青春の入り口は、複雑で、怖くて、愉快で、いろんな出来事があった時代だ。

中学校は「怖い」といわれて入学した二年後、自らがその裏の中心人物などになるなんて予測もしていなかった。
今日もあの焦げた弁当のにおいがする。
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