街は、相かわらず殺風景な灰色に染まっている。
僕の心も、去年の夏以来、灰色に染まったまま新たな年を迎えた。
まだ、「駅伝部」に腰を据えてはいるが、部に対してこれといった貢献もせずに、3回目の箱根駅伝も3位という不甲斐ない成績で、もうずいぶん過去のことのようだ。
季節は春を迎えようとしていた。

あの夏の日の出来事が、まるで夢のようだ。
あれから、もうずい分時が経っているような錯覚をもつが、まだ半年も過ぎていない現実に、思わず重いため息が出る。
二年生の時にやった足の怪我は、思った以上に治りが悪く、いったい、いくら治療代に使った事か、計算する気にもならない。
そんな重い気持ちと相まって、あと一年残っている大学生活が、夢へジャンプするための最後のチャンスではなく、永遠に続く、抜け出せない泥沼にはまったような気持ちが、日に日に増していく。

「真由美はどうしているんだろう」

ぼくは、口にこそ出さないが、忘れようとしても忘れられない想いを抱え込んだままだ。






真由美の友達の彼氏と、同じ部に所属はしているものの、部の中における立場上、僕は安易に、そのことを口に出すことはない。
そんなもどかしさが僕の心を縛り、行動を緩慢にしている事実はぬぐえない。
真由美は、僕が通っている大学の隣にある芸術科の短大生で、今春で卒業のはずだ。
昨年の夏、思いもしない別れ方をして以来、会う事もなく、僕の心は閉ざされたままだ。
いまでこそ、平素にふるまえるようにはなったものの、重い鉛の塊を心の中に抱え込んだまんまで、何一つ改善されてはいなかった。

「思い切ってアリに聞いてみるかな」

アリとは、真由美の同級生を彼女としている、同じ部の同級生である。
僕と馬が合う奴ならともかく、こいつは部のマネージャー、という要職についているわけで、僕とは正反対の立場にいる以上、仲がいいという事は道義上あり得ないわけだ。
そんな事もあり、人に借りを作ることが大っ嫌いな僕は、鉛のような気持ちを、一人抱え込んだまま、誰に相談することもなく今を迎えているという訳である。
仲が良くなければなおさらのことである。






時がたつのは早いもので、3月に入ろうとしていたある日、一年前合宿所を脱出して、優雅なマンション生活をしている清水とたまたま授業が一緒になった。

「おい、おまえ、真由美ちゃんとはどうなっているの?」
変な関西弁で、予期しない問いかけをしてくる清水に、僕は不信感を持った。

清水は、3年前入学した当時の同級生で、合宿所の中でも、「ヘマの清水」と、僕ら同級生からも呆れられるくらい、毎日問題を起こしていたやつである。
でも、変な関西弁には不似合いの、切れ長の眼差しで、どこか憎めない所があり、僕とはよく馬が合った。
合宿所を脱出した後も、僕はこいつのマンションに入り浸っている。
そして、何気に顔が広く、部内の情報に長けていたから、合宿所を出た後でさえ、同級生の色恋事の情報などは、そのほとんどを把握していた。

「別に、もう別れてるよ」
つかれたくない古傷に、触られたかのような想いで、僕はぶっきらぼうに清水に返答すると
「あのなぁ、真由美ちゃん、帰るんだって」
清水の口から飛び出した、全く予期もしない言葉に、僕は色めきだった。
何でこいつがそんな事を知っているんだろう。
不信感も最高潮に達する気持ちの中で、最後のチャンスだと僕は直感した。

「なんでお前がそんな事知ってるんだよ」
僕は、清水の行動範囲の広さに至っては、こんな情報もすでにキャッチしているんだろうと思いつつも、絶対的な不信感を抱いて探りを入れた。
清水のいいところは、顔にはにあわない純朴な性格の持ち主で、嘘は言わないという事を、僕は二年間こいつと生活を共にしていた経験上、そんな事は良く知っていた。

「この前真由美ちゃんに会った時に、そう話しとったよ」
僕は目眩がしそうだった。
なんでこいつが真由美と会えるんだよ。
どんなつながりがあるんだと、また不信感もフラッシュバックする中、少々ムカついた気持ちを奥歯でかみ殺して

「なんでお前が真由美ちゃんと会えるの?」
イラつく気持ちを押しとどめて、清水に対し、僕の鉛のような気持ちをぶっつけた。

「今な、俺が付き合っている子の友達なんだよ」
僕のイラつき感は、この言葉で一瞬にして消えうせた。
そして、こいつの行動範囲の広さに感心するも、呆れてしまい、つい
「おまえなぁ、女、何人いるんだよ」
そんな呆れ口を言ってしまったそばから、即、会話を切り替えた。

「誰かと付き合っているの」
僕は、つい本音を口に出してしまい、自分の不甲斐なさにげんなりした。
それでも
「いつ帰るのよ。俺から連絡してもいいか、お前の彼女のつてできいてもらってよ」
いつしか本音と、鉛のような気持ちを清水に分けてしまっていた。

それまで燻っていた僕の鉛のような気持ちが、清水とのやり取りで、ずいぶん軽くなっていた。
そして、僕と別れた後、真由美は誰とも付き合っていないことを、清水から聞き、内心ほっとした。
やはり、こいつはいいやつだと、心底感謝したことはいうまでもない事だ。






数日たったある春先の肌寒い日の夜
「プリン先輩、女性の方から電話です」
合宿所の一年坊主が、部屋まで電話を取り次ぎに来た。

「女性って誰だよ」
「名前を言われませんから、分かりません」
「若い声か、年寄りの声かどっちだよ」
少し困ったような顔で
「若い方だと思います」
一年坊主は真面目な眼差しで答えた。
「ありがとう。分かった。もう行っていいぞ」
僕は、心の内を見透かされないように平静をつくろい、電話口にむかった。

一人に一台の携帯電話がある今とは違い、連絡手段は公衆電話の時代である。
廊下の隅に設置してある、黄色の公衆電話機で、過去三年間、先輩たちの色恋のドラマを目の当たりにしてきていた。
まさか自分がそうなるなんて、思いもしなかったことだ。
先輩たちが、通りすがりの部員に、話の内容を悟られないように背中を向けて、ひそひそ話をする光景を思い出し、自分に重ねて何か一人前になったような錯覚を覚えた。

「はい、もしもし、プリンですけど」

「もしもし」

か細い、そして懐かしい声が、受話器の向こうから、夜の闇を切り裂いて飛び込んできた。
真由美だ。

僕はわざと繕い
「久しぶり。元気にしてた?」
半年も時間が過ぎているにもかかわらず、気の利かない、当たり前の切り出し方しかできない自分を恨んだ。
お互いの声も、何かぎくしゃくとした感じだ。
短いやり取りの後

「いつ帰るの。送りに来てもいいかな?」
と、今の僕にできる、精いっぱいの気持ちを伝えた。

「○日、○○時ごろ青葉台駅に行く予定」
とだけを短くメモをとった。
とうとう本音を言い出すことができなかった、自分の不甲斐なさが情けなかった。






3月の暖かくなってきたある日、Gパンにウールのセーター、部のウインドブレーカーに、ナイキのシューズ姿で、僕は青葉台駅に来ていた。
天気はいいが、風はまだ冷たい。
日常と変わらない人の動きや車の雑踏が、灰色の僕の気持ちをよけい灰色に染める。

30分ぐらい待っただろうか。
あの頃と変わらない、カールの少しきいたライトブラウンのロングヘアーに、白のコートとダーク色のロングブーツ姿の真由美が、大きなスーツケースを転がして現れた。
僕はまだ、気持ちが後ろを向いたままで、手を上げることも、動くことさえも出来ず、ただそこに呆然と佇むばかりだ。

真由美は僕を見つけるなり、白い息をはきながら近づいてきた。
僕は、何も言いだすことができない。
体中に、何か悪い呪文でも掛けられたかのような重苦しさが、僕の心身を支配していた。
そんな僕の様子に気付いたのか、真由美の口が開いた。

「ごめんね」

その一言が、取り返すことのできない過去の出来事や、どうすることもできない僕自身の不甲斐なさや、埋めることができない二人の溝をありありと見せつけるかのごとく、罪の所在を突き付けられたかのようなじれんまとなって、僕の心に突き刺さった。
僕は自ら動くことも出来ず、唇を強く結ぶだけだ。
その間、真由美は帰る目的地までの切符を買い、僕はまるで真由美に引っ張られるように、二人改札を抜けた。

特に何の会話も無く、駅のホームに出ると、この時期特有の季節風が僕らを吹き付ける。
凍えた心に、冷たい風が、よけい僕たちを凍り付かせてしまった。
何か言わないと。
僕は、凍えた体と気持ちに、言いようのない怒りと悲しみをこらえ、精いっぱいの善意を繕おうとしていた。

「大丈夫か?」
何とかひねり出した言葉に
「うん」
と、短く真由美が応える。
僕は真由美の顔さえ、まともに見れないでいた。

真由美の故郷は群馬で、関東圏なのに、もうどこか遠くへ行ってしまうような、二度と会えないような思いが僕を焦らせる。
現実的に、二度と会う事も許されないし、僕は真由美の連絡先さえ捨ててしまっていた。
気持ちの整理はしてきたはずなのに、真由美を見ていると、心の奥底から湧き出てくる、この言いようのない、折り合いがつけられない気持ちはどうしたらいいんだろう。

「お母さんが上野駅まで迎えに来てくれるから」
真由美は、務めて明るく振舞った。
僕はその言葉に、僕の罪の全てを清算してしまえたかのような、少し安心した気持ちになったのは何故だろう。
もう二度と、真由美とは会えなくなる。という現実から逃げ出したかったのだろうか。





じきに田園都市線、青葉台駅のホームに、渋谷行の電車が入って来た。
もう最後だというのに、何にも言えない。
電車がホームに止まろうとしたその時、思わず季節風が強く吹いたかと思うそばから、真由美の髪が僕の顔に振れたかと思うと同時に、唇に暖かい感じを覚えた。
僕らは唇を合わせたまま、お互いの別れを惜しむかのように佇んだ。
真由美の可愛い舌先が、僕の口にガムを転がした。
僕はそれを受け入れ、また真由美の口に返した。

「ありがとう」
僕は、繕う事のない精いっぱいの気持ちを口にした。

「私、大丈夫だから。本当にありがとう。忘れないから」
その言葉を残して、真由美を乗せた電車が動き出した。
途端に涙がとめどなくほほを伝った。
僕は電車が見えなくなるまで、ホームに佇んでいた。
口にはガムのレモンの後味が残っていた。





どの位、佇んでいただろう。
ようやく我に返り、寒さを感じた時、冷たい風が白いものを運んできた。
雪だ。
どこからともなく、「なごり雪」のメロディが聞こえてきた。

  汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる
  季節外れの 雪が降ってる
  「東京で見る雪はこれが最後ね」と
  さみしそうに君は つぶやく
  なごり雪も 降る時を知り
  ふざけすぎた 季節の後で
  今 春が来て 君はきれいになった
  去年より ずっときれいになった・・・


  君が去った  ホームにのこり
  降ってはとける  雪を見ていた
  今 春が来て 君はきれいになった
  去年より ずっときれいになった


涙で曇った駅のホームに、僕は一人佇み、地に足がつかないような、切れた気持ちをしっかり支えようとしていた。
僕は確かに真由美を「愛」し、そしてひとつ大人になった。
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1984年の夏。
忘れようとしても、僕の脳裏の片隅に刻み込まれた古傷のように、忘れ去ることができない記憶。

もう六月も終わろうとしている。
夏の休暇を前に、特に家に帰る予定もなかったんだが、合宿所の同級生の、マルが
「プリン、いつ帰省するの?」
「なんで?」
「わしな、まだ熊本に行ったことがないんじゃ」
と、独特の広島弁で問いかけてくる。
「いっぺん、熊本城や阿蘇や天草に、いってみたいとおもうとったんじゃ」
と言ってくる。
「よかよ」
そんな約束をしてしまっていた。

今振り返っても、特に後悔の念はない。
ただ、あの時、真由美を残して帰っていなかったら、今頃、僕の人生はどんなになっていたんだろうと・・・。






七月も終わろうとする週末、真由美を誘い、一度行ってみたかった横浜方面行きの電車にふたり乗った。
桜木町でおり、デートスポットである、「山下公園」や「港の見える丘公園」なんかをぶらつた。
真由美を誘った理由は、いくつかあったが、その一つに、明日になったら故郷に帰省する。
という事を告げたかったこともその一つだ。
あの夜、とうとう僕の本音を言い出す勇気が出ず、夜の青葉台の公園で、二人夜更けまで肩を並べ、たわいもない会話に時間が過ぎていった。

「明日、故郷に帰省する予定なんだ」
本当は真由美を残して故郷に帰るつもりはなかった。
何故か故郷に帰ることが、真由美と永遠に分かれてしまう事のような錯覚を覚えていたからだ
後ろ髪を引かれる思いを心の中に封じ込め、僕は真由美に告げた。

「私も一回熊本に行ってみたいな」
その言葉を受けて、ありありと近い将来を、希望的、楽観的に想像してしまった僕は、本当に未熟だった。
そんな会話の最後に
「私も明日故郷に帰るよ」
真由美の口から出た言葉を聞いて、僕の気持ちに折り合いがついてしまった。
たったの二週間の別れだと。






翌日RZで、東名、名神と下り、中国道、九州道と九州に入る予定は、はかなくも神戸で終了を迎えた。
夜の8:00を過ぎていた。
フェリーに潜り込み、翌日から九州に入るという誤算をしてしまった。
この誤算が、僕と真由美との関係を暗に示していたのかもしれない。






無事、熊本に入った3日後、マルから電話が届いた。
「明日、熊本駅に○時頃にはつくからのぉー」
休日の前半は、マルを観光地に案内する生活に充実していた。

「世話になったのぉ。じゃ、プリンまた横浜で会おうな」
そんな言葉を残して、盆前にマルは広島に帰って行った。
今でもマルを観光地に案内した時のスナップ写真は健在だ。

その頃、真由美から手紙が届いた。
丁寧に書いてある優しい字で、その前後の文面はもう忘れたけど
「プリンさんのこと、忘れてしまいそう」
という文面を見て、お愛想なんだろうけど、何か得体のしれない不安感を覚えた。
僕もお返しの手紙を書いたけど、そんな事は書いてはいない。
いてもたってもいられず、盆を過ぎてすぐ横浜に帰った。






残暑の盛りの横浜に、真由美はまだ戻ってきてはいない。
どのくらい待っただろう。
何回かめの電話で、真由美をつかまえられてとき帰ってきた言葉は、32年経っても思い出せる。
「もう、会わないで」
と。





理由が分からず、真由美に問いかけることもなく、時間は過ぎ去るばかりである。
悶々とした気持ちで、当時僕は荒れていた。
部屋長の城越先輩に、ずい分慰められたことが今では懐かしい。
理由が分からず、一方的に拒まれることほどきついことは無い。

時は流れ、大学生活3回目の箱根駅伝は、3位に終わった。
僕もその頃になれば、ずいぶんと現実を冷静に見られるようになっていた。

「真由美の同級生が彼女の、アリに聞いてみてもらうかな」
僕は問題児の烙印を押されている立場上、そんな事をアリに頼むことは、僕のプライドが許さないわけだが、僕の心の中では、プライドと真由美の気持ちを知りたい、という鉛のような重いしこりがぶつかっていた。

男なんて、所詮は女に弱いんだな。
僕は、人生における貴重な経験をした。
プライドは、跡形もなく崩れ去っていた。






数日後の寒い夜、一年坊主が電話を取り次ぎに僕の部屋に来た。
「先輩、女性の方から電話です」
「女性って誰だよ」
「名前を言われませんから分かりません」
あの頃、今は携帯だから関係ないけど、こんな種の電話では、名前を名乗らない事がセオリーだったようだ。
「若い声か、年よりの声かどっちだよ」
一年坊主は、僕の気迫に押されてたじたじだ。
「多分若い方だとは思います」
「分かった、もう行っていいぞ」
僕は、何か悪い予感を感じ電話に向かった。






「はい、もしもし、プリンですけど」
「あっ、プリンさんですか。○○です」
声の主は、アリの彼女だ。
僕は言葉が出てこない。
その間アリの彼女の一方的な話を聞いた。

「あのね、真由美、プリンさんの事が嫌いになったわけじゃないのよ」
「私たち、もう卒業でしょ。真由美ね、姉さんがいるんだけどね、実家に帰らないといけないみたいなの」
僕は黙ったままだ。
「だからなのかなぁ」

僕は初めて安堵した。
真由美が考えていることを理解できたことが、そんな気にさせたんだろう。
「ありがとう」
僕は一言だけ告げると受話器を置いた。






この時、僕は21歳、真由美は20歳だ。
でも、どうしようもないお互いの「家」のプレッシャーを感じた。

「関係ないだろ」
僕はどこにもぶっつけることのできない悔しさと怒りで壁をたたいた。

その後、僕は真由美の事を考えるも、何も言えず、言う事が怖くて一人煮え切らない気持ちを僕の胸中に封じ込めた。
真由美と知り合ってから、どのくらいたっただろう。
僕たちは、毎週、週末にはいつも一緒に時間を過ごしていた。
僕は慣れない「恋愛」感情に、戸惑いながらも、、真由美の事を大切にしていた。




もう季節は初夏を迎えていた。
どちらから提案したわけでもないが、そんな流れになっていた。
「海へ行こう」
と。
僕にとっての海は、「湘南海岸」が、まず頭に思い浮かぶ。
神奈川県に住民票を置いている以上、「夏」、「海」と言えば、湘南海岸であることは、もぐりでもない限り、自然とイメージされるわけだ。
「海」に、縁のない故郷を持つ真由美からしても、湘南海岸は、憧れの、「夏」のステージに間違いはなかった。






七月に入った日曜日、僕は朝から準備に追われていた。今から訪れるであろう、スイートな一日に向けて。
もう、大学は前期の講義も終了し、1,2年生は、水泳実習やらキャンプ実習やらに出かけている。
不思議と、3年生にもなると、慣れなのか、1年生の時に感じた、あの「地獄からの脱出」みたいな感情は、全く湧いてこない。
多分、暗黙の身分が、「天皇」に昇格したせいだろう。
そんな事で、夏休みにも入っているというのに、駅伝合宿所の部員は3、4年生ばかりだが、そのほとんどが帰省もせずに、毎日「自炊」の優雅な生活を送っている。
「門限」も「点呼」もない。
気の向くままの自由な休暇で、彼女がいるヤツなんて、彼女のアパートに泊まり込む奴なんかもいる。
ステージは同じなのに、いつものあの厳しい生活が嘘のようだ。
僕は、部屋長である4年生の城越先輩との二人だけの、男くさい時間を持て余していた。
「おい、プリン、明日はどこえも行かんの?」
日曜日を、次の日に控えている土曜日の夜、城越先輩が何気に僕に探りを入れてくる。
でも、僕が、隣の美術系の短大生である、真由美と付き合っているという事は、部内の、いや、大学の、そのほとんどの付き合いのある仲間内では、知り渡っている事だ。
「すいません、デートに行ってきます」
と、素直に言えることも、何か、オープンで、みんなが、僕と真由美の関係を、暗黙の了解で認識していることが、何か、決定的な事のように思えて、僕はすこし、どころではなく、ずいぶんと鼻が高かった。
城越先輩は、それ以上は聞いては来なかった。
多分、みんなに公認の付き合いだとでもいうように。






日曜日の朝、僕は、RZ350に「火」を入れ、これから訪れようとしている出来事に対し、まるで「祈願」でもするように、僕の相棒のこの娘をみがいていた。
「無事に運んでくれよ」と。
後輩から借り受けた2つ目のヘルメットは、いかにも、形だけで、道交法違反を避けるための手立てにしかならないような代物だった。





ハイカットの赤のオールスターシューズに、清水から譲り受けたLEEのジーンズをはき、白のTシャツ。その上にトレーナーを羽織り、初夏の匂いがアスファルトから立ち上る頃、緑色の風を受けて、僕はRZを真由美が待つ、真由美の寮の前の交差点へ向けて走らせた。
もう、ずいぶん太陽は高く、気温を上げている。
スリムのジーンズに、白のポロシャツ姿、そしていつものライトブラウンのセミロングの髪をなびかせ、真由美は僕を待っていてくれた。
その姿を確認し、僕は路肩にRZを止めた。
「おまたせ」
少し早く着いたが、真由美も、今来たばかりだという言葉に、心が弾む。
僕はRZから降りて、真由美に僕の「GVE」のブルーと水色のラインが入ったヘルメットをかぶせた。






ルートは、青葉台からR18号、藤沢街道を抜け、目的地は、初夏の「湘南海岸」だ。
タンクバックには、ラジカセと、サザンオールスターズのカセットを持参している。
初めて彼女を連れてのツーリングデートだ。
抜かりはない。
真由美は、バイクに乗ったことが無いようで、タンデムシートに乗る際、片手は僕のベルトの前、あと片手は、リアのバーを握るように言ってはいたが、赤信号のたびに、僕の背中に押し付けられる、真由美の小ぶりな胸の感触が、僕を熱くさせた。
その後、わざと赤信号のたびに、急ブレーキをかけたことは言うまでもないことだ。






そんな不純な思いと行動を繰り返しながら、「江の島」に着いた。
江の島に続く連絡道をまっすぐ行き、ヨットハーバーの先にRZを止め、二人堤防に上がり、江の島から見える海を見た。
青く続く海の様子は、今でも忘れることは無い。
僕たちは、どちらから握るでもなく、手をつないで江の島の観光スポットを回遊した。
その後
「茅ヶ崎海岸へ行こうよ」
と、真由美のリクエストもあり、RZは藤沢から戸塚を目指すことになる。






真由美をタンデムシートに乗せ、湘南の風を受けながら、RZは小ぎみよいエンジン音を僕の身体に伝えてくれる。
左は穏やかな湘南の海、正面には富士山がその輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
まるで僕たちを祝福してくれているかのように。
ここルート134は、実は「箱根駅伝」3区、8区のコースになっていて、未だ箱根デビューすることもなく、燻っている僕の気持ちに薄い影を落としたことは仕方が無い事だ。
RZは、そのまま、戸塚の中継所を右折することもなく、まっすぐ突っ走っていた。
すると、後ろから、赤のフェアレディZが僕らを抜きすぎると同時に、ウインドウを開け
「お兄ちゃん、こっちは行けないよぉ」
と、言う。
そう、僕は自動車専用道路でもある西湘バイパスに入ってしまっていた。
それも、二人乗りで。
まだ、バイクの二人乗りは、自動車専用道路ではできない時代だ。
路肩にRZを止め、何とか回避できたことは、今思えば冷や汗もんである。
そんなアクシデントもあったが、無事、「烏帽子岩」の見える海岸にたどり着いた。






僕は持ってきたラジカセを、タンクバックからだすと、サザンの、「いとしのエリー」やら「チャコの海岸物語」なんかを流したことが、つい昨夏の事のようだ。
初夏の「湘南海岸」は、穏やかに、遥か彼方に水平線を引いている。
海岸では、夏の盛り前というのに、多くのカップルや家族でにぎあっている。
時折吹く風が心地いい。
真由美は、素足になり湘南の海と戯れている。
無邪気なその様子が、永遠に続く恋人同士の関係を、暗示しているかのように思えた。
そのワンカットを写真に撮ってはいたが、僕が結婚するときに、僕自身の決意で処分してしまった。
心残りは無いが、不思議とそのネガは、リアルに僕の脳裏に焼き付いている。

いつか、本で読んだことがある。
男は、それまで付き合った女性の事は、自分の脳裏の片隅にある、「CDR」に一枚一枚焼き付けると。
女は、自分の「DVDR」に、上書をするということを。
それが事実なら、僕はありがたいことだと思うんだけど。






今となっては、真由美との事は32年前の、僕だけの思い出にしておきたい。
無いとは思うが、もし、彼女が、あの頃の事を引きずっているとしたなら、そんな不幸なことはないと、僕は思う。
「真由美には僕の事を忘れ去られたい」
と。




その後、鎌倉の大仏を見たことまでは覚えているが、どこをどういう風に帰ったのかは、全く記憶にない。
不思議だ。
僕の本能が、二人の関係が帰路を境に、破局に向かおうとしていたことを、暗にそうさせたのかもしれない。
ただ、最後に、真由美と唇を合わせたことだけは、今でもリアルに思い出せる。

「鎌倉の大仏を見たカップルは、その後破局する」
ということを、後から知った。
東京生活も、三年目の夏を迎えようとしていた。
立場は「天皇」となっても、生活では何にも変わることはない。
三年生となっても年功序列の制度は厳しいが、やはり実力主義の世界だ。
特に部内の立ち位置が目安の、5000mと10000mの記録が伸びたわけでもなく、ぼくは相変わらず怪我に悩ませられながら、燻った大学生活を送っていた。
いや、むしろ合宿所生活も三年目ともなると、慣れと飽きと、焦りがにじみ出てくる。
僕は走れない苛立ちと、焦りを紛らわすため、その有利な立場を利用して、しょっちゅう門限破りや飲酒を繰り返し、「問題児」の烙印を押されていた。
昨年までの問題児であった清水が、合宿所脱出に成功して以来、なにか潤いが無くなった感はぬぐえない。
それでも僕は土日と限らず、愛車のRZ350を転がして、夜な夜な渋谷や青山まで繰り出していた。






そんなある日の授業の合間、学年のマネージャーの立場に落ち着いている、同級生のアリから、そんな話が舞い込んでくるとは、思いもしていなかったことだ。
「おい、プリン、彼女いないだろ?」
僕は、今まで、女の方から「告られ」たことはあっても、それ以上の関係に発展したためしがなく、彼女と呼べる異性と付き合った経験値は、ゼロに等しかった。
「なんで?」
「あのな、俺が付き合っている娘の友達が、お前に好感を持っているみたいでな」
「どこの誰だよ?」
「○○短期大の娘と俺、今、付き合ってんだけどな。その友達」
「えっ?俺、知らねーぞ」
「去年、ルマで逢ってんだろ。真由美ちゃん。おぼえてねーか?」





遥か彼方の記憶の隅に、そういえば、そんなこともあったっけ。
と、思うふしから、「真由美」という娘の記憶が、その輪郭を次第に鮮明に僕の脳裏によみがえってきた。
「えっ、マジかよ」
僕は、アリの突然の振りに、現実を受け止めるまでに、少々の時間を要してしまった。

アリは、頭のいいやつで、チームメイトの中で、燻っている僕の事を、少々は考えての事みたいに言い訳をした。
「お前な、彼女でもつくってみろよ。今の状況が変わるかもしんねーぞ」
と、アリは部のマネージャーという立場上、しょっちゅう問題を起こしている僕の事を考えての事でもあった。
というか、マイナス要因の僕を、上手くコントロールすれば、チーム全体のためにもつながるであろうとの、裏の考えもあっての事だ。

それにしても、僕は、昨年、真由美という娘と逢ったことは思い出したけど、あの娘が、僕に好意を抱いていたなんて、夢にも思っていなかったことだ。
僕は、一年前、確かに真由美という娘の事を、記憶にとどめていた。
いつ、僕の記憶から薄れ去っていたのかは別として、僕も、確かに、あの時、真由美という娘に「好意」を抱いていたことは、まぎれもない事実である。






話は、急展開を迎えることになった。
アリに、その後
「彼女なんていないけど、その話、マジか?」
「だったら、俺に紹介してくれって、頼んでよ」
そんなやり取りをしてから数日後、アリから、「真由美」の住所と電話番号が書かれた、紙切れを受け取った。

「話は通してあるから、後はお前の方で勝手にやってくれ」
後から分かったことだったが、アリの彼女は、一年前、「部屋会」でルマに行った時に、真由美と一緒にいた、あと一方の娘だという事。
僕は、アリに感謝するも、
「アリって、面食いではなかったんだな」
そんな事を一人で思って、笑ってしまった。

その後、僕は自ら、紙切れに書いてある真由美の電話番号に電話をかけ、デートの約束を取り付けたことは、言うまでもないことだ。






梅雨晴れの、少し空気が暖かくなった日曜日、僕は、真由美と青葉台駅の改札口で出会った。
約一年ぶりに再会した真由美は、グレーのスーツ姿に、ライトブラウンの少しカールのかかったセミロングの髪の、細面の目鼻立ちが通った、誰からも一目置かれそうな大人の女性になっていた。
時のアイドルで言えば、大場久美子そっくりの顔だちに、ひそかに大場久美子ファンでもあり、「コメットさん」を毎回欠かさず見ていた僕にとっては夢のような出会いであった。

「ごめん、待った?」
僕は、ジーンズにパーカーを着、ナイキのシューズ姿である。
釣り合わないスタイルに、自分を恨みながらも、二人改札口を抜け、青葉台駅の渋谷方面、上りのホームに出た。
梅雨の合間の日差しは暖かく、そして時折吹く風はさわやかに、僕らを包んでくれた。
これから訪れるであろう、祝福の時を讃えるかのように。
僕らは、二人、田園都市線、渋谷駅行きの電車に乗り、二人の時間を大切にした。
白いタンクに青と水色のゴロワーズカラー。
あの頃750キラーと呼ばれ、昭和56年、YAMAHAから出た250CCと350CC。
そう、2サイクル全盛の時代、ビッグバイクをも、おもちゃにするツーストの代名詞ともなった、RZ350に出会ったのは僕が高校三年生の頃だった。
愛読書の「少年ジャンプ」に、「青い流れ星」シリーズの短編漫画のモデルとして登場したRZ350は、今でも僕の記憶に残っている。

昭和56年は、周りの同級生が、みんなバイクに夢中になっているような時代だ。
同級生の中には、遠距離通学生という正当な理由のもと、高校に特例として、「バイク通学」を許可されている奴もいた。
そして、制服のカッターシャツ、にエンジのネクタイをなびかせて、そいつはいつもバイクを転がしていた。
今流の、特定代名詞かのような、「ヤンキー」なんてチャラい言い方は、僕ら正統派には通用しない。
当時、そんな連中は女にうつすを抜かす、ちょっといかれたヤローたちの総称だった。
18歳にもなると、僕らは普通免か中型免を取り、時には紫の国道を、時速150kオーバーでぶっ飛ばしていた。






早春の暖かい季節、僕は青葉台の駅から、大学の合宿所へ帰るバスに乗っていた。
見慣れた車窓から、何気に春の街路樹を眺めていた時、本当に偶然に、小さなバイク店に鎮座する、RZ350をみつけた。
自分の足で、相手と競走するために入った大学のはずだったが、芽が出ない苛立ちと、けがで思うように走れないストレスで、もうずいぶん前に走る事への情熱が冷めていた。
そんな時にRZ350を見つけてしまった。
興味半分に、その後の休暇の時、そのバイク店に立ち寄った。






昭和56年製のYAMAHA RZ350。
「青」と「水色」のゴロワーズカラーが白いボディに、美しく映えていた。
3年落ちの中古で20万で出ていた。
一目惚れだ。
僕は迷わず即決した。

「RZ350が欲しい」
と。

親のすねをかじっている身分で、少々のためらいもあったが、この機を逃すと一生会えないような、恋人を手放すような心境だった。
親に、ありもしない口実を並べて、翌日僕の所有物となったわけである。

引き取りのその日、店長から
「くれぐれもクラッチワークには気を付けて」
という言葉を、軽々しく聞き流していた僕は、その日、交差点で「大ウイリー」をして、あわや大惨事になろうとしたわけだ。

あとから知ったことだが、曲がらない・止まらない・いう事を聞かないと。
このRZ350は、とんでもない「じゃじゃ馬」であるという事を。
そして、その多くのオーナーは、「乗っている」じゃなく、「乗せられている」という事を。
だからなのか、僕はますますこの娘に惚れ込んでいった。
そんなRZ350をこよなく愛したことは本当だ。
その頃、世界ではGPグランプリで、憧れのアメリカン、「フレディー・スペンサー」が活躍していた時代だ。
もう大学3年生になっていた。
スペンサーと同じ年頃だ。






部が休みになる土曜の夜や夏休み、冬休みには、夕暮れと共に「渋谷」や「新宿」まで遊びに出向くことが、お決まりのコースとなっていた。
あの頃は、新宿だったら「ニュヨーク・ニュヨーク」だったり、渋谷だったら「キャンディキャンディ」で、時間の許す限り踊りまくっていた。
そして、帰りはいつも国道246をぶっ飛ばして帰っていた。






ある日、ダチのケンジと午前様まで踊り、帰りはいつものように246を下るわけだが、信号のたびに、片側4車線に、大小、オフからオンロードまでが並んだ。
信号機が青になったとたん、みんなが轟音を上げてダッシュしていく。
別に何かルールがあるわけじゃない。
だれかれ知っている奴でもない。
たまたま、その信号機で止まったという理由だけで、お互いがライバルになるわけだ。

多分、多少の腕自慢か、自分の相棒の性能をひけらかしたいのか、単純に人の後ろを走りたくないのか、理由は今でも明確に説明がつかない。

「他人の後ろを走りたくない」

僕の動機は単純明解なものだ。
最初こそあまりの威圧感にビビっていたが、そのまるで「グランプリレース」のスタートみたいな快感に、根っからの競走マニアである僕とケンジは、はまってしまう訳である。

競走で「負ける」ことが大っ嫌いな性分が、僕の体を動かした瞬間である。
その後、信号で並ぶや「青」にシグナルが変わったと同時に、アクセル半開き、クラッチもハーフ。
それでもRZ350は、轟音と共にフロントを持ち上げたまま約50mは加速した。
グランプリレーサ顔負けだ。
そして、大多数の車やバイクを、白煙と共に遥か彼方に置き去りにした。

あの、ツースト独特のふけあがり感、カストロールの排気の匂い、まるで生き物のような振動。
全てが僕を魅了した。
誰が言い始めたのかは分からないが、「246グランプリ」と、僕らバイク乗りの間では話題の一つとなっていた。






この娘と2年間付き合う歴史の中で、僕らはこの真夜中の「246シグナルグランプリ」にはまった。
時にはCB750さえ置き去りにした。

ガキの頃から実践してきた「全開」や「ぶっ飛ばす」事がここで生かされるとは、露にも思わなかったことだ。

僕らはその時確かに「青い流れ星」になっていた。
大学生活も一年を過ぎ、「のど元過ぎれば・・・なんとやら」と、良く言ったもので、二回目の春を迎え後輩ができるとともに、昨年までの、あの暗い時代が「幻」のように記憶から、その一部始終が消えてしまっていた。
僕は無事に進級し、二年生となっていた。
年功序列の体育系大学には、一年「奴隷」、二年「平民」、三年「天皇」、四年「神」という暗黙のしきたりがしかれていた。
やっと人並みに扱われるようになったという訳だ。





その頃、駅伝部の「合宿所」は、一部屋六畳間に、備え付けの二段ベッドが二つ横に並ぶようにして配置され、学年順に机が並ぶという異様な空間を作っていた。
合宿所内には、9つの部屋が同じような配置で存在し、新年度を迎えると、部屋替えとともに新たなメンバーで部屋割りがなされた。
部全体の派閥も新たに生まれてくるという訳だ。






僕は、力のあるやつの下に入り、「コバンザメ」みたいにくっついて、媚びを売るようなまねが生まれつき大っ嫌いというか、苦手というか、そんな行動をするDNAが生まれつき身についてないらしく、いつもマイペースで「孤独」を愛した。
周りから観ると、「偏屈者」か「横着者」に見えていたかもしれないが、とにかく、同級生だろうが、先輩だろうが、力のあるやつの「ふんどしを借りて相撲をとる」様なまねだけはプライドが許さなかったから、だいたいいつも一人でいた。

たまに、似たようなヤツが絡んでくることもあった。
その一人に、3年に上がるころ合宿所を無事脱出し、自由気ままなマンション生活を始めることになる、「ヘマ」の帝王、清水がいた。





部屋も新しく配置され、僕の下に「新入生」ができた。
僕も「先輩」と呼ばれる立場となったわけだ。
確か岡山から来たとか言っていた。
こんな僕でも、新しい部屋の先輩や、右も左も分からない新入生と同部屋になるとなれば、少しは考えるわけだ。

「今度の土曜に部屋会をするから、18:00にルマに集合」

部屋長である、四年生の坂口先輩からの言葉に素直に従ったのも、そんな思いからだ。
3年生の先輩は、去年まで大学の寮生だった広島出身の池岡先輩だ。
昨年の一年で、人並み以上の努力をし、5000mの自己最高タイムを上げて、今春から、箱根駅伝控え部員の集まる、駅伝合宿所に、めでたく配属されたという訳だ。
「じゃけんのぉー」が、言葉の端々に飛び出してくる。
少々お調子者で、みんなから疎まれていた。





「かんぱーい」。
場所は、学生が集う近所の学生食堂「ルマ」である。
僕と後輩は、まだ二十歳前である。
今なら即、「未成年の飲酒問題」として、話題性のあるネタ探しをしている、うだつの上がらない暇なメディアや、情報誌がかぎつけ、スクープされる危険性もあるが、もう35年も昔の事だ。


つまみの「ポテトフライ」、「エイひれ」、「キムチ」、「焼きししゃも」、等をつまみ、「生ビール」や「ホッピィ」を喉に流しいれる。
この時だけは、「身分制」も少しは緩む。
酒の強弱もあるが、僕らは即、巡業の「盃」に廻る。

今年から、「受ける」側も加わり、少し勝手が違う事に戸惑いながらも、新入生の一年坊主に僕なりに「優しく」接した。
これも親譲りのDNAの賜物だろうか。
ぼくは、むげに年下に「先輩風」を吹かし、偉そうにする上級生が嫌いだった。
ましてや、自分がそうであると、下級生から受け取られることに対しても、僕のプライドが許さなかった。

出来の悪い年下や後輩には、隠すことなく「悪い理由」を説明した。
それでもダメなやつとは距離を置いた。
お決まりの「ルール」を後輩に、「守れよ」と、理屈をいう事が、何か理不尽な権力に、従う事のようで僕はいつも逆らっていた。
どうしたら、不都合から身を守ることができるのか。
といったような、僕の気まずい「経験談」をもとに、合宿所の「いろは」を教えた。





宴もたけなわになると、池岡先輩が赤ら顔で、その頃はやった「H2O」の「思い出がいっぱい」を、少々音程が外れたメロディで、気持ちよく歌いはじめた。
「この歌、いいよねぇー」
つい昨日のことのようだ。

体育系大学生の苦しいしきたりはたくさんあるが、下手でも、お愛想の「拍手」をしなければならないこともその一つだ。
歌い終えると、もう既に次の曲を探して、分厚いタウンページみたいな歌詞本をめくり始めている。
まだカラオケは、リモコンなんてない時代だ。
部屋長の坂口先輩はというと、たまたま一緒になった女子部の四年生の先輩と、何やら楽し気に話している。
僕と後輩には誰も目もくれずに。

「あーあ、これで部屋会かよ」。
愚痴を奥歯でかみ殺して、僕は相変わらず後輩と話すだけだ。
まるで「天皇」と「神」から見放された、「平民」と「奴隷」であるみたいに。






それまでは気が付かなかったが、店内の一番奥のこじんまりとしたテーブル席に、若い娘が二人向かいあって何か会話していることに気付いた。
身なりからして僕らの「同類」ではなさそうだ。

「おい、源次郎、おまえちょっと行ってこい」
僕は、この時ばかりは先輩風を振りかざし、後輩に命令を下した。
いつもなら「先輩」に対しては、少々の気を遣う僕も、「ないがしろ」にされているような気分に、嫌気がさしたのかもしれない。

僕らの身内では、「先輩」からの頼み事を断ることは、すなわち「地獄」を意味する。
昨年までの一年間で、何回この「地獄」を嫌な思いをしながら「回避」したことか。
時には
「おう、プリン。渋谷のコーラが呑みたいから、買ってこい」
と言われて、夜の9:00過ぎ、「門限」を過ぎているにもかかわらず、寮長にその旨をいい、買い出しにさえ行ったことがある。
また時には、公衆の面前で、酒に酔っていることをいい事に、パンツ一つで踊ったこともある。





「先輩、何て言えばいいんですか?」
一方的な、理不尽極まらない命令に、源次郎が困り果てた顔で僕に訴える。
「適当に言えばいいんだよ、適当に。きっかけをつくりゃいいのさ」

僕の気迫に押され、しぶしぶ席を立つ源次郎の後ろ姿に
「どうせふられるに決まってるさ」
そんな、ある種の余興の感覚でいた。



そこへ源次郎が戻ってくるなり
「先輩、一緒に飲んでもいいですよ。ということですが、どうしますか」
予期せぬ返事を持ち帰ってきた源次郎に、僕はあせった気持ちを悟られないように、
「えぇ、本当かよ」
と、まるで手柄をたたえるかのような眼差しで応えた。

それからが大変だ。
僕は上の先輩たちに
「源次郎が、勝手にあの娘達を誘ってしまって、一緒に呑んでも構わないですか」
と了解をとる。





一人の娘の名前は忘れた。
あと一人の娘は、「真由美」と自己紹介した。
僕らの大学の隣にある、美術系の短期大学の一年生だという。
たまたま今日は二人で、大学に入学した歓迎会をやりに、ここ「ルマ」に来たという訳だ。
僕は忘れていた。
この店には、僕ら体育系学生のみならず、隣の短大生もよく来るという事を。





「真由美」という娘と、あんまり話をすることはなかったが、僕より一つ年下だという事。
青葉台の寮に住んでいるという事。
という事実を知りえただけで、門限の時間となり、お互い「ルマ」を後にした。

その後、部屋会での出来事は、ほとんど記憶に残ってはいないが、「真由美」という娘のことは、記憶の片隅にしっかりと刻み込まれ、僕の脳裏から消えることはなかった。

一年後、再び「真由美」に出会う。という事を、この時に思う事すらなく。
一年生となり、毎日地獄のような思いをしながら、なんとか三か月がたとうとしていた。
僕は、すでに、この大学に入学した動機さえ見失っていた。
まわりの先輩たちは、「陸上競技マガジン」の月刊誌に、カラー写真で記事が載るような、すごい先輩たちばかりである。
そんな事が僕を臆病にしていたのかもしれない。

六月となり、夏休みを目前にひかえたある金曜日の夜
「明日は全員6区の試走だから、ここを3時には出るから準備しとくように」
と、4年生のマネージャーである、岩下先輩からの連絡を聞いて
「6区?あっそうか。僕は箱根駅伝を走るために、ここへ来ていたんだ」
と、ふいに約3か月前の、あの希望に満ちた胸中を思い出して、げんなりした。

Aグループ以外の、全員による箱根駅伝の「試走」である。
公道を、約40~50人で一斉に走るとなれば、車のいない早朝スタートが安全であるし、警察への道路使用届なんかも無視してできるという訳だ。
今年、僕の入学した大学は、箱根駅伝総合2位に甘んじていた。
今年の箱根メンバー以外の、新戦力を発掘するといった正当な理由のもと、どんなコースなのかも分からない、20.5kmを走るという訳である。
箱根駅伝が、国民的感動ライブ生番組として、正月のテレビで放映される以前の時代である。







「芦ノ湖」
初めて聞く地名に、大学のマイクロバスから降り立つと、まだ夜明け前の4時という時間で、辺りは真っ暗のやみある。
街灯が箱根駅伝のコースを、まるで道しるべかのように永遠に照らしている。
スタートは6時。
すでにやる気のない僕は、また、僕同様にやる気がなく、夏休みを待ちわびている同級生のタツオと、ウォーミングアップという名目で、初めての地である、「芦ノ湖」湖畔を散歩しながら、ここ3か月の愚痴をいい合いお互いを慰めていた。
そこへ、どこからどう見ても、「駅伝ランナー」らしくない、自己節制無視の宇野先輩がやってきた。
「おう、プリン、調子はどうや」
と、朝だというのに、異常なハイテンションの声をかけてくる。
「最悪です。今日はケツをゆっくり行かせてもらいますよ」
横でタツオも、僕と同じ表情で先輩へ会釈している。
宇野先輩は、3年生で、合宿所組でも大学の寮生でもない。
優雅なアパート暮らしの身で、昨晩は恒例の麻雀で、徹夜明けみたいな様子である。

「あーあ、いやだなぁー。早く終わらないかなぁー」
そんな思いを抱きながら、重い足取りでタツオと二人、芦ノ湖を横目に渋々ウォーミングアップに時間を費やしていた。
まわりでは、来年の「箱根駅伝」のメンバー入りをもくろんでいる、少々走力のある先輩や、高校時代にインターハイや全国高校駅伝でならした同級生たちが、無言で黙々とウォーミングアップに取り組んでいる姿がある。
その様子を見て、自分もその一員であるという現実に、またげんなりとした。
そんな監獄での、「強制労働」を思わせる「試走」も、後30分で6:00のスタート時間を迎えようとしている。
いやいやながらも、20.5kmをとにかく走れば、今日の練習も終わりである。
僕は一人スタート時間を待った。

夜の闇が薄れていく頃、3年のマネージャーである米山先輩の声で、スタート地点である芦ノ湖の駐車場に、約50人がTシャツ、ランパン姿で集まった。
大学名の入ったTシャツやランパンは、はかないようにとの、事前の申し合わせに従い、それぞれがカラフルなカラーのTシャツ姿である。
ただし、1年生は「奴隷」の身である。
「一年生は無地の白のTシャツで来るように、とのことだそうだ」
とは、学年長の足立からの言葉で、事前に、二年生から、そんな身なりの事まで制限を強いられていた。






いよいよスタートだ。
「あぁーあ、早く終わんねーかなぁー」
僕は、見るからに、余興とも、冷やかしとも思われる、「ランナー」らしからぬ姿の先輩たちと、スロースタートで最後尾をだらだらと走っていた。
箱根の6区は、「山下り」と言われるが、スタートしてから5kmまでは、標高約100mは登る、山登りである。
100mで2m登る勾配は、結構な坂道なわけだ。
スタートして間もなく先頭集団は、あっという間に見えなくなっていた。
最後尾近くをジョギングに毛のはえたぐらいのペースで、上り坂を登り始めると、「ぜぇ、はー、ぜぇ、はー」と、僕の後方から、まるで蒸気機関車並みの排気音を上げて、宇野先輩が僕を抜き去っていく。
「おう、プリン、まだこんなとこにいたんか」
僕は反射的に、「お疲れ様です」と、つい日頃のくせが出てしまう。
ジョギングよりも遅いペースである。
ウォーミングアップを、愚痴をこぼしあいながら走った、タツオの姿さえ身の回りにない。
「なんだよぉ、タツオのやつ、いう事とやることがちがうじゃねーかよぉ」
僕は一人愚痴りながら、ただ優雅にスローペースをきざんでいく。

5kmの最高地点で、4年生の岩下先輩が、ストップウォッチをかざして
「19分52秒。おう、プリン、まだこんなとこにいるのか?」
と激を飛ばしてくる。
「はい、すいません。ちょっと、腹の調子が悪いんです」
と返し、後ろを振り返ると、先輩の姿が近くに2人見えた。
僕は後ろから3人目のポジションを走っていた。
「まぁ、予定通りかな?」
やる気のない僕は、何とかだるい「山登り」を終えようとしていた。
もう少し走れば、「山下り」の始まりだ。
僕は、自分のポジションを維持し、あと15,5kmを、ただ下り終えたら今日の練習は終わりであるといった、楽観的な気持ちを抱いて、ただ前に足を出すだけである。

初夏とはいえ、標高800m以上はある箱根山の早朝の時間帯である。
「気温はどの位なんだろう」
少し肌寒いけど、新緑に彩られた景色がすがすがしい。
車の往来も全くない。
この時期に、おまけに早朝の時間帯に車を走らせるようなやつらは暴走族ぐらいだろうけど、なにも好き好んでこんな標高800mの山頂まで登っては来ないわけだ。
僕は優雅に下り道に入っていった。
 




その時だ。
「箱根の神」がいるとしたら、僕に舞い降りた瞬間である。
S時カーブがまだなく、箱根山の頂上から下りにかけて、直線で遥か彼方に部員達が一瞬連なって見えた。
何故だか「下り道」に入った瞬間、僕の体内で、ランナーとしての未知の「スイッチ」が入ってしまった。
身体が勝手に、「スピード」を加速させだした。
理由は分からない。
前を走っている先輩や同級生を、息もつかせず抜き去り始めていた。

いったいどうしたというのか。
「山下り」が僕を呼んでいるような錯覚に落ちてしまった。
もう止まらない。
一度上げたペースは、ゆるむどころか、ますますそのスピードを加速させていく。
次々に部員を抜き去っていく。
小涌園前では、そのほとんどを抜き去ってしまっていた。

マイクロバスの米山先輩が、5kmごとにラップタイムを告げてくれる。
「プリン、今の5km、14分14秒」
「えっマジか?」
中間点の、大平台ヘアピンカーブに差し掛かる頃、先頭を単独走っていたトップランナーを見つけるまでに来ていた。
「あの走りは?足立?」
そう、一年生の中でも先輩たちに混じり、Aグループで練習している、高校は兵庫県の名門、○○工業高校出身の足立だ。

僕はその姿を確認し、何故か、またギアを2段シフトアップした。
「いける!」
別段、トップを狙っていたわけでもない。
そんな気持ちになったのは、多分、優等生の足立だったからだろう。
普段から僕たちとは違うというような感じがあった。
Aグループという事で漠然とではあるが、何か足立だけ周りから特別扱いされているような雰囲気を感じていた事もその理由だ。
瞬時に僕の脳裏で劣等感が勢いを増し、爆発したことが、そうさせたんだろう。

ヘアピンカーブを通過し、その後の連なるS時カーブで、とうとう足立の背中を捉えた。
「おまたせ」
そんな気持ちが沸き上がる胸中をぐっと抑え、そして、並ぶことすら僕のプライドがそうさせず、一気に外から抜きさった。
抜き去る時、僕は見た。
足立が一瞬「ギョッ」とした表情をつくったのを。






「箱根の山下り」は、膝にブレーキがかからないように、跳ねずに滑るようにして走る。との、セオリーがその頃言われていた。実際僕の先輩で、3年時から4年時と、この6区で区間新記録を2年連続出した谷口先輩は、超のつくピッチ走法だ。でも僕は構わず、大股のストライド走法で、急斜面なんかものともせず、「ぶっ飛ばした」。
実は高校時代、僕の陸上部の先生は、やはり、この大学の先輩にあたる塩塚先生で、日体大時代、この6区で、3,4年と連続で区間新を連発させていた方だ。
僕はその先生について、高校3年間走るうちに、大胆なストライド走法が身についていた。
その後に連なるS字カーブを、まるで、「飛ぶ」様に駆け抜けた。
視界に入る景色は、ものすごいスピードで後方に流れていく。
「快感」だ。
「プリン、今の5km、14分38秒」
米山先輩の声が後ろから僕を押してくれる。
びりスリーだった僕は、気が付けばトップを走っていた。

「これが天下の剣か」

僕は初めて箱根の山を駆け下りながら、朝日を受けていた。
正面から受ける朝日が僕を祝福してくれているようだ。
何か、感慨深いものが、僕の気持ちの中に芽生えていた。






函領洞門を過ぎるあたりから、急激に今までの急な「下り坂」がなくなる。
微妙に下ってはいるものの、箱根湯本駅から中継地点まで、まるで「上り坂」に感じる、残り3kmが果てしなく遠い。
「おい、プリン、あと3kmだぞ。足立に負けんなよ!」
米山先輩の声が、背中から僕を怯えさせた。
「なに?足立?あいつが来ているのか?」
そう思うも、足が思うように上がらない。
練習不足なんだろうと、自分の努力不足を恨んだ。

あと1、5kmというところで、足立が僕の後ろに着いたかと思うそばから、僕を抜き去っていく。
「くっそぉ、足が動かねぇ」
体中に鉛を括り付けられたような重さが体を縛り付ける。
呼吸は全然楽なのに、体が自分のものではない別物のようだ。
そんな想いで、全体の2着でゴールした。
足立とは18秒差である。約100m。





届かない18秒に僕は、何故だか満足していた。
「おまえ、すげぇーなぁー」
ゴール後、足立の方から僕に声をかけてきた。
やっぱり、足立はすげぇやつだなぁ。
ぼくは、この時、心底足立に感服した。





その翌年、足立は一年だったが、「箱根駅伝総合優勝」の、10区アンカーとして、大手町でフィニッシュテープを切った。
横浜市、緑区、青葉台、なにかドラマのロケ地を思わせる地名。
昭和57年4月、僕は神聖な夢と期待を胸に膨らませ、関東の地を自分の進路先と決め、青春のすべてをかけて今から起ころうとしている全ての出来事に、ドラマティクな希望を抱いていた。

関東の大学を進路先と決めたはいいものの、今から約4年間、僕の生活の舞台となる場所は、横浜という関東のドラマチィクな地名とは予想に反して、青葉台という東急田園都市線の駅名が町の名前になっている、どこか、地方の町を彷彿させるこじんまりとした町である。
華やかな青葉台の駅周辺を過ぎれば、丘陵や畑、見渡す限り整地されただけの、いまだ住宅が建っていない広大な広々とした台地が広がる田舎町だ。
僕が進路先と決めた大学へは、青葉台駅から1時間に1本ぐらい出ているバスに乗り、荒涼とした風景を眺めながら約20分もかかる場所にある。
思いもつかなかった、横浜の田舎町で、僕の生活は始まった。

かけっこで箱根駅伝、オリンピックと、壮大な夢をかなえるために、始めはあこがれていた合宿所生活だが、現実は予期しないもので、描いていた壮大な夢は次第に霞となっていくわけである。
あの頃、僕はまだ未熟だった。
誰もがそうであるかのように、夢は脳裏の片隅で、まるで夜霧がはれるようになくなっていった。






体育系大学ではうたい文句のような、年功序列が暗黙のルールで、一年生は毎日、時間割か行事のように2年生からいびられた。
その2年生にしたって、3年生や4年生の顔色をうかがいながらの寮生活である。
「こんなはずじゃなかった」
と、多くの同級生は自分の進路を疑ったのではないだろうか。
この現実を、不屈の精神力と体力で乗り切った者だけが、その先にある「栄光」を手に入れられる。
そんな、精神論が第一とされていた時代である。
根っからの真面目人間でも、要領が悪い僕は、慣れない集団生活のなかで、度々「ヘマ」をやらかした。
そして、毎日、何かを理由に、「しごき」が日課となっていた。
まるで「監獄」みたいな生活が19歳になった僕らを待ち受けていたという訳だ。
でも、先輩たちにしたって、この時代を乗り切って、華やかな今があると思えば、何とか我慢できた。
過去には、「夜逃げ」した先輩もいたと聞いていた。
そして毎日、僕だけじゃない、同級生はみんな何かをやらかした。
逆に何にもやらかさない同級生は、うとまれた。

例えば、処分中で丸刈りの2年生に、1年生と間違えて、「ため口」をきいたり、先輩の顔を未だ覚えきらず、「挨拶」をしなかったり、風呂への入り方(それぞれ挨拶があるわけで)を間違えたりと・・・。
生身の人間で、パーフェクトな人間がいれば、そいつはたぶん、スーパーマンだろう。
そんなヤツは誰一人いなかった。
そんな事で、集団責任という体育系集団ならではの理論で、自分では何にも「ヘマ」をしなくても、毎日夜の8:00になればみんなが2年生からやられた。
「集合」という合図で。





そんな中、忘れもしない思い出がある。
入学して、秋に差し掛かるころの事だ。
「九州人会」
それは部の九州出身者だけの「酒呑み会」の事で、問題はそこで起こった。
酒の味もろくに分からない僕らは、今風に言えば、巡業みたいに先輩達に「酌」をしに回らなければならない。
それも時間の許す限り永遠に。
一年生はゲロを吐きながらの酌で、何にも面白いことは無い。
そして、寮の門限前には自然と飲み会も終了し、それぞれが先輩たちに引きずられながら、電車に乗り込み帰るわけだ。

しかし、僕は運が悪いことに、前年度卒業していた、高校からの先輩である西岡先輩につかまっていた。
何故か卒業した社会人一年目の西岡先輩がそこにいた。
いや、宴会場に最初からいたのか?就職しても故郷の熊本へは帰らず関東の地に就職していたから、誰かが呼び出したのかは、今となっては記憶は定かではない。
そんないきさつは全く覚えてはいない。
ただ、宴もたけなわになる頃
「おい吉田、こいつは俺があずかるから、寮長にいっとけ」
その一言は今でも覚えているし、その一言で、僕の運命は決まった。





みんなが真面目に寮へ帰っていくのを横目に見ながら、僕は西岡先輩に連れられて、今の川崎は高津駅の下にあった、焼き鳥屋「きん太」へ入った。
そこの店は、同じ熊本県の先輩が店長をしていた。
まだ19歳になった僕にとって、夜の街や、居酒屋や、焼き鳥屋、は大人の世界だった。
見るもの、聞くもの、そのすべてが新鮮で、鮮烈に僕の意識の中に飛び込んできた。

西岡先輩は、社会人一年生であり
「おい、プリン、好きな物ばたのめよ」
なんて僕に、焼き鳥や、ビールを気兼ねなく進めてくれた。
きっぷが良く僕の憧れの先輩だった。

何故か、合宿所の二つ上の先輩で、同じ熊本県出身の、吉田先輩もそこに居た。
たしか・・・さっき、西岡先輩から、合宿所の寮長に伝言を受けていたはずだけど?
「おい、吉田、寮長に言っとけ」
と。


僕は、アルコールで酩酊する意識の中で、そんな事を一瞬考えた。
でも、アルコールのせいで大きくなった気持ちは、「制御不能」となっていた。
みんなで威勢よく、沢田研二の「六番目のゆうつ」を歌った事が、今でもしっかりと記憶に残っている。






社会人になっていた先輩は、「大人」の匂いがした。
その後、どこの店だったかは覚えていないが、気付けば、きれいな女性が近くにいたことを思い出す。
たしか名前は「みどり」とか言っていた。
お店のコンパニオンじゃない。
あの子はいったい誰だったんだろう。
どこからきて、どこへ行ったかは全く記憶にない。
ただ、思い出すのは、「みどり」という言葉にお似合いの、緑色のスカートか何かを身にまとっていたことだけだ。

最後には
「おう、プリン、今日は俺んちに泊まっていけ」
という言葉に甘んじた。
時間はもう次の日になっていた。
「門限破り」
十分すぎるA級戦犯だ。






午前1時位だったと思う。
西岡先輩が運転する50CCバイクの後ろに乗り、高津から住まいの二子多摩川までぶっ飛ばした、あの酔いがさめるほどの冷たい風を思い出す。
そして、どこかのアパートに入るなり
「おう、プリン、勝手になんでも使っていいぞ」
という割には、何にもなかった部屋の様子はおぼろげながら、ぼんやりと思い出せる。






日付が替わった、土曜の早朝。
正気に戻ったぼんやりする頭で考えると、寒気がするほど「びびっていた」。
西岡先輩はまだ寝ている。

「何て言って合宿所に帰ろうか?」
僕は一人、二子多摩川駅に歩いていく時も、電車に乗っている時も、そんな事ばっかり考えていた。
二日酔いで痛い頭がよけい痛かった。






合宿所に帰ると、僕らの同級生で、暗黙の学年長である足立が僕の姿を見つけるなり
「おい、プリン、お前、とんでもないことしたなぁ」
いつもの、天と地がひっくり返ったかのような大袈裟な物言いの、変な関西弁で突っかかってくる。
言い訳なんかできやしないから
「悪い」
とだけ、うなだれて返した。
しかし、駅伝の名門校出身であり、高校時代から合宿所生活が身についている足立にとって、僕の仕出かした不始末は、きっと、想像を超えた出来事であり、予測しえないA級戦犯であったことであろう。
「お前なぁ、考えらんねぇーよ」
の連発で、いい加減こっちもあたまにきて
「しょうがねぇだろぉー」
なんて言ったが、悪いのは俺だという罪悪感から言葉に力が入らない。

しかし、今振り返ると、あの時の足立からの声掛けで、気持ちがずいぶん軽くなったことは確かだ。
「おい、今日は集合だぞ」
という足立からの言葉で、ありありとあの陰険な場の雰囲気を連想してしまい、また気分が悪くなった。






その夜、恒例のいびり「集合」が、予定通り午後8:00から食堂で始まった。
一番の罪の立役者は僕である。
2年生の矛先が全て僕に集中していた。
「お前なぁ、一年の分際で無断外泊なんて、前代未聞だぞ」
と威勢のいい、飯村先輩が言う。
結局、僕のおかげで僕の部屋全員、一か月の外出禁止令が敷かれることになった。
部屋の3年生の先輩である、オサム先輩は
「俺んとこの一年坊主にはまいったよ」
なぁーんて言ってくるし。
本当に「八方ふさがり」とはこんな状況を言うんだろうなぁと実感した。
でも、部屋長の中沢先輩は
「おい、プリン、だめじゃねぇーか」
「西岡さんも西岡さんだなぁ」
と、僕を怒ることはなかった。
当然、「神」と「奴隷」の間柄である。
僕は会話も許されず、ただ「すいませんでした」というだけである。
この中沢先輩は、あだ名が「じぃ」と呼ばれていて、実業団から大学に来た先輩である。
僕の高校の恩師と年も近く、何か高校の先生から諭されているような錯覚になってしまった。
この先輩は翌年、箱根駅伝7区で区間賞をとり、総合優勝に貢献された先輩である。
「陸上マガジン」という月刊誌でも、特集が組まれ、その中に写真のカットが掲載さるるようなすごい先輩だ。
そんな先輩たちが、僕の身のまわりにたくさんいて、出来の悪い僕を振り返った時
「場違いなところに来てしまったんじゃないだろうか」
そんな意識がふぅと脳裏をかすめた。
あの時の部屋の先輩たちには本当に申し訳なかった。

それでも、この恒例の「集合」の時、僕以外に2年生からこっぴどくやられていた常習犯の清水には笑えた。
こいつは「反省」というスキルが身についていないのか、毎回上級生の矛先になっていた。
しかし僕とは馬が合い、その後よく行動を共にした。
50を過ぎた今でも、同級会で笑いの対象だ。

僕はボーズの頭を五輪に刈った。
そして、やかましくいびった一つ上の先輩は3年生に上がるころ部を去った。
全てが懐かしく、そしてほろ苦い想い出として思い出される。
今からもう34年前の事だ。





焼き鳥屋「きん太」は、もうないだろう。
あの時、少年みたいに、僕を夜の大人の世界に誘ってくれた西岡先輩も、もういない。
だけど今でもしっかりと覚えている。
焼き鳥屋「きん太」で唄った「六番目のゆうつ」。
みどりというきれいな女性の横顔。
酔っぱらって大きな気持ちでぶっ飛ばしたあの冷たい夜の風を。